浜津澄男という詩人を私は読んだ記憶がない。たぶん、はじめて読むのだと思う。ことばが自在に運動するというのとは違うのだが、なんとしても動いていかなければならない「場」というものを浜津ははっきり自覚している。書きたいものがある--そういうことを感じる詩集だ。
「鳥」の全行。
沼で黒い鳥が泳いでいる
何羽もの鳥が
一つの列をなして泳いでいる
無表情で機械的な泳ぎである
先頭の鳥が奇声をあげると
残りの鳥がいっせいに羽を広げ、声をあげる
列が沼の中心部で
円を描いて動き始めている
次第に動く速度を増して
まわりながら少しずつ沈んでいる
沈んでしまったあと
円の内部の水が急になくなってしまい
沼の中心部に大きな穴があいている
穴から湯気が立ち昇り
黒い鳥たちが
勢い良く
空に向かって舞い上がっていく
前半は、実際に浜津が見た光景かもしれない。(空想かもしれない--けれど、くっきり見えれば空想でも現実と差はない。)
一つの列をなして泳いでいる
無表情で機械的な泳ぎである
という、しつこい(?)ことばの動きが鳥をではなく、鳥の動きを浜津が見ていることをくっきりと浮かび上がらせる。
鳥ではなく、鳥の動き--それが浜津の視力をねじまげていくんだな、という感じがする。というか、すでに、ねじまげられている。何か違ったものを見始めているという感じが濃密にただようことばである。
そして、実際、それから先は鳥の描写ではなく、鳥の運動の描写になるのだが、その描写が突然、鳥さえも超えてしまう。
沈んでしまったあと
円の内部の水が急になくなってしまい
私は、ここに、ぐい、と引きこまれてしまった。円の内部の水のように、ふいに、そのことばの「底」(ことばの穴--排水口?)のようなものに吸い込まれていく感じがするのだ。
何かが急に変わってしまった。
「内部」ということばを手がかりにして「誤読」すると、「内部」と「外部」が入れ代わってしまったような感じがするのだ。
「鳥」と「沼」という「外部」を見ていいたはずなのに、鳥の運動を見ているうちに、「鳥」と「沼」は「外部」ではなくなってしまう。--いや、こういう言い方は正確ではないなあ。「鳥」と「沼」という目で見える「外観」は、鳥の運動という「内部」、あ、これも正確ではないなあ……。なんというのだろう、鳥の運動--運動というエネルギーの「内部」に乗っ取られてしまう。「外部」と「内部」が入れ代わってしまう。
「鳥」と「沼」を見ていたはずなのに、「鳥」が声をあげ、円を描き泳ぐときの、その動きに「沼」が飲み込まれてしまう。そこには「沼」はなく、運動がある。「鳥」の運動だけがある。
そういうことを
円の内部の水が急になくなってしまい
という1行で言い表そうとしているのだと思う。
うーん。
うなってしまうねえ。なんといっていいか、わからない。
これは、もしかすると、浜津自身の困惑かもしれない。何が起きたのか浜津もわからないのではないか、と思う。その後の、突然の、まるでとってつけたような「結末」がそのことを語っている。
「内部」の水がなくなることで、「内部」が急に出現してきてしまった。それにどう向き合っていいか、浜津は考えてこなかった。突然、そういうものに出合って、ことばがどんなふうに動いていくのか、なんの予測もなく、ただ茫然とみつめている。
あ、この感じ。この感じのなかに、詩がある。詩人が生まれてくる瞬間がある、と私は思う。
浜津の詩は、「現代詩」として完成されているとはいえないかもしれない。けれど、そこに、完成とは違った魅力がある。浜津には書きたいことがたしかにある、そしてそれをどう書いていいかわからないけれど、ともかく書こうとしている--その切羽詰まった力がある。それを感じる。
浜津が感じていること、ことばで書こうとしていること--それは、きっと外部と内部の入れ代わりということだ。「コーヒーと女」という詩には、次の部分がある。
女の意志で飲んでいるのではなく、形のない何者かに飲まされているように見える。容器のなかの液体も、コーヒーであるかどうか、疑わしい。飲むたびに、容器が少しずつ膨らんでいる。
容器が弾力のある内臓のように変容している。内臓が女を飲み込んでいる。わずかに膨張と収縮があり、悲鳴や驚愕の声はなく、現象は静かに淡々と終了している。
「内臓が女を飲み込んでいる。」という表現が特徴的だが、「内部」によって「外部」が飲み込まれ、「内部」と「外部」が逆転する。それが浜津のことばの運動である。
そして、それを「ことば」そのものに置き換えていうと、「ことば」で何かを描写するとき、その「ことば」の内部にあるエネルギー、独自のパワーが、「ことば」の「外部」--「ことば」とは何かを描写するものであるという「定義」を突き破って、何かを噴出させてしまう。爆発させてしまう。飛び散らせてしまう。
「ことば」は何かを描写するためにあるのではない。自分の「外部」にあるもの、たとえば「コーヒーを飲む女」を描写するために、「ことば」はあるのではない。「ことば」は何かを描写するというふり(?)をしながら、「ことば」自身が、その「内部」に持っている欲望を爆発させるためにあるのだ。
「ことば」の「内部」を爆発させたい--そういう欲望を、浜津のことばに私は感じる。あ、詩人だなあ。詩人がここにいる、と感じる。
本屋では手に入らないかもしれない。発行所の住所を書き記しておく。ぜひ、買って、読んでみてください。
詩の会こおりやま
〒963-0205
福島県郡山市堤2-175 安部方
残部があるかどうか、確認していません。一部1600円です。

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