関口フサ「ミスター・アルファベット」は風変わりな詩である。B、D、Eと三つの部分から成り立っている。AとCがない。Aは、以前に発表されているのかもしれない。(私は記憶力が悪いので、覚えていない。)
全部がおもしろいというわけではない。でもBはおもしろい。
入口が一つで
出口が無数にある
多角形の街に
男は万華鏡のように迷い込む
街角から街角
男は街のほころびを縫い合わせて行った
「万華鏡」の「比喩」がおもしろい。「比喩」と書いたが、比喩を超越している。
ここでは「万華鏡」は何も「比喩」していない。(比喩していない、というような日本語はないけれど、どう書いていいのか思いつかない。)
何かの譬えではなく、ここでは「万華鏡」は「万華鏡」そのものであり、それ以外のことばが「比喩」なのだ。「入口」も「出口」も「男」も「迷い込む」さえもが「比喩」である。
つまり。
読んだ瞬間、万華鏡って、そうだよなあ。入口が一つだと思う。のぞき穴。それは一つ。そして、ちょっと万華鏡を動かすと、そのなかでは模様がつぎつぎにかわる。その模様の一つ一つが、「入口」から別の世界へと私を誘っていく。「出口」は、その動きのそれぞれのなかにある、と思えてくる。
でも、こういう読み方では、この詩はおもしろくなくなってしまうね。
万華鏡を描いたのではなく、あくまで、街を描いている。街に入り込んだ男を描いている。そして、街を描写しはじめたら、その描写が、ことばにのっとられて違ったものになってしまう。
その運動のおもしろさ。
何かの描写、写生なんておもしろくない。ことばで何かを説明して、わかるようにする、なんておもしろくない。
ことばが勝手に動いていって、書こうとしていたものと違ったものを勝手に書いてしまう。その瞬間がおもしろいのだ。
「多角形の街」が「万華鏡」になってしまって、その瞬間から、「街」とどこかに消えてしまう。「万華鏡」は比喩ではなく、現実を突き破って存在してしまう特権的な何かである。
こういう特権的なことばの出現が、私は好きだ。
*
藤富保男が「一筋縄」という「落書き」を描いている。ことばは、ない。右の方に男がいて、伸ばした手の先に「縄」がある。その「縄」は「一筆書き」のように渦をまきながら、男の「顔」らしいものをかたちづくっている。男が「縄」を引っ張れば、「顔」は消えてしまう。
で、それがなぜ「一筋縄」?
あ、そんなことは、どうでもいいんですね。
「一筋縄」と「一筆書き」がどこかで組み合わさって、どっちがどっちをのっとってしまった(突き破ってしまった)のか、まあ、わからないけれど、そのわからないものがわからないまま、そこにある。
わからない--というのは、しかし、不思議なもので、ほんとうに何もわからないかというとそうではなくて、何か、あ、これはあれかもしれないなあ、と意識の底をくすぐる。わかる、と一瞬錯覚させる。
その「錯覚」--それが、たぶん、詩。
「誤読」が詩、あるいは、「誤読」を誘う仕組みが、詩。
で、(何が、で、なのさ、と私は自分でいってみるのだけれど)
この「一筋縄」の「一筆書き」はとっても「意地悪」。実は、「一筋縄」の「一筆書き」に見せながら、違っている。「顔」の「目」だけが、「縄」から離れて独立している。「一筋縄ではないかない」作品になっているのだ。
笑ってしまうね。
(作品は、ワープロでは再現できないので、省略。)
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