デンゼル・ワシントンの「座頭市」か……。
でもさあ、座頭市が教養があっちゃ、つまらないよなあ。勝新太郎と座頭市をごっちゃにしちゃいけないのかもしれないけれど、やっぱり、愚かじゃなくっちゃ。ばかだけど、純情。そういうのが、美しい、というものじゃないかなあ。
なんて、映画とは無関係な感想かな?
この映画、何がひどいかというと、ストーリーが映像になっていない。映像を「ことば」に置き換えないと、ぜんぜんおもしろくない。ボルヘスがこういうストーリーを書くと、夢のようにくっきりしたものになるんだろうけれど。すべてが既視感のあるものになって、それが逆にこわくなるんだろうけれど。
この映画のひとつひとつのシーンも「既視感」という点で言えば、既視感。悪い意味だよ。ぜんぶ、どこかで見た感じがするというだけのこと。
ボルヘスの既視感は違うね。見たことがないのに、脳のなかへ、その奥へ、ぐいと入ってきて、脳のなかにある余分なものを追い出してしまって、今読んだことばだけが存在するという錯覚を起こさせる強烈な既視感。知らないものまで、知っている、と感じさせる既視感。芸術は、そういうものじゃないとねえ……。
なんて、言っても、はじまらないか。
せめて、デンゼル・ワシントンが最初から「座頭市」として登場していれば、映画は少しは違ってきただろうになあ。
「音」がほんとうにストーリーと噛み合わさっているのは、デンゼル・ワシントンが立ち寄る一軒家、その老女の手の震えがコーヒーカップを持つとき震える、そしてカチカチと音がするというところだけだもんなあ。
こんなシーンや、嗅覚が鋭いことを知らせるシーンが「伏線」と言われてもなあ。
観客をばかにしきっている。
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