三井葉子『人文』には俳句が出てくる。「枯野」という作品は「旅に病んで夢は枯野をかけ廻(めぐ)る 芭蕉」を踏まえている。とは、いっても、ほんとうに踏まえているのかどうかはわからない。ことばが「文」(文学)になるまでには、山の中の道が踏み固められてできるよりも、もっと時間がかかるかもしれない。芭蕉がつくった句であっても、そこに芭蕉だけが歩いているわけではあるまい。
ということは。
と、私は、突然飛躍するのである。その芭蕉も通っただろうけれど、芭蕉じゃないだれかの踏みしめた「足跡」を、自分の足でたどってみてもいいんじゃないだろうか。そのことばのなかに、だれのものであるかわからない「足跡」、いや、その足の裏の感覚を感じてもいいんじゃないだろうか。
と、三井が感じるかどうかはわからないが、私は感じてしまう。
三井が芭蕉の俳句を踏む。そうすると、その三井の足の裏には芭蕉の足を超えた、もっと別のひとの足の裏の感じ、ことばを踏みしめて歩く別のひとの足の裏の感じが「肉体」そのものとしてつたわってくる。それを、三井は、三井のことばで語り直している。
穴に入るまでのひと呼吸
蛙はちょっと考えている
穴に入るまでのひと呼吸
蛇も ちょっと
考えている
腐葉土の
いい匂い
栗も爆ぜる
ああ 世界かァ
とわたしは思う
どうしようかと考えているところを世界というのかァ とわたし
は
思う
枯野という世界もあるのかと思う わ
はせをさん
「どうしようかと考えているところを世界というのかァ」がすばらしい。ひとは(動物も)同じところをとおる。それが「道」になる。ことばが繰り返されて、「文」になっていく。とは、いうものの、そんな簡単には「道」にならないし、「文」にもならないだろう。そのたびに「どうしようか」と思う。ひとも、動物も。
その「ひと呼吸」、「どうしようかなあ」と思う「ひと呼吸」が、しずかに「肉体」を動かすのだと思う。そこでは「ことば」は動かず、ただ「肉体」が動く。
「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」とは言うものの、実際に、駆けめぐりはじめるまでの「ひと呼吸」、決意のひと呼吸、踏み出すまでのひと呼吸--それが三井には、瞬間的に見えた、ということなのだろうなあ。
*
この「ひと呼吸」を「蛙とびこむ」では別のことばで言っている。
死ぬわ というと
おお そうかとさきに死んでくれるおとこ
はずかしい というときにはずかしいことをして
ああ たったいちまい
こんなうすい皮を破ることができないとみもだえている
夜明けの
うすい
雲 の
ような
うーん。「古池や蛙とびこむ水の音」という句が念頭に置かれているのだけれど……。そうか、古池の水面、その表面が「うすい皮」か--と思いたいのだけれど。
私は、すけべなのかなあ。
ぜんぜん違うことを考えてしまう。
男と女のセックス。「死ぬ」とか「いく」とか。どっちが、先か。「はずかしいこと」なのか、「はずかしい」をとおりこしたことなのか。まあ、どっちでもいいけれど。その「死ぬ」というときの、瞬間的な、破壊。「うすい皮」? それは、この世とあの世の境にあるうすい皮かもしれない。
それは、うーん、「死ぬ」といいながら、一回では死ねない。「ああ、もうすぐ、もうすぐ、もうすぐ」と身悶えながら、
どっちが先に「死ぬ」?
よくわからないねえ。
ねえ、三井さん、「古池や蛙とびこむ水の音」を読みながら、ほんとうに、そんなことを考えたの?
いや、そんなことは考えていません。かってに、いやらしいことを考えないでください。自分の妄想をひとの妄想にしないでください、ぷんぷん。
叱られるかもしれないなあ。
でも、私は考えてしまう。感じてしまう。そして、そういうこと--男と女のセックスのことだけれど、それはだれもが知っていることだけれど、そこには「道」は、まだないんだよなあ。「文」もないんだよなあ。あるように見えるけれど、それは勘違い。その人だけにしかわからない、「道」であり「文」である。そして、そのひとにだけしかわからないのだけれど、この「道」はみんながとおっている、みんなが「ことば」にしている。なんとか「文」にしようとしている。
で、ここで、またとんでもない飛躍。「誤読」。
古池に飛びこんだ蛙--その水面のうすい皮を破って、ぶじ、この世からあの世へと「死ぬ」--「死ぬ」といっても、生きている、というか、より強く生きていると感じる、その「水のなか」で、蛙さん、蛙さん、いまは、何を考えている? 感じている?
それを聞いてみたい。
でも、これは聞かなくてわかること。
ほんとうにわからないのは、やっぱり「死ぬ」前の、「死ぬ」寸前の、つまり「うすい皮」を破る前の、「はずかしい」瞬間だね。
なぜ、わからないのだろう。
何度も何度もくりかえしているのに。
わからないから、永遠にくりかえすのかな?
三井が書こうとしているのは違うことかもしれないけれど、私は、色っぽくていいなあ、と思う。つやっぽくていいなあ、と思う。
「文学」(文という道)のなかには、そういう色っぽいものがつまっている。「わび・さび」なんて、言ったって、それに辿り着くまでにひとはいろんなことをする。そのいろんなことをした「足跡」(足裏の記憶)が、どんなことばにもあって、それを芭蕉のことばから感じるなんて、超かっこいい。
超かっこいい--なんて、軽薄なことばだけれど、三井のことばを「ほめる」なら、絶対、「超かっこいい」以外にない。
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