くりかえすということをとおして、八重洋一郎は「真理」をつかむ。くりかえしのなかに、「真理」がある、ということを八重は知っている。
そして、そのくりかえしは、実は、不思議な特質を持っている。
「巫(ふ)」という作品。その3連目。
生まれることは闇ではない
<生マレルコトハ闇デアル>
みまかることは闇ではない
<ミマカルコトハ闇デアル>
必ず光は示されるだろう
<待ッテモ待ッテモクラヤミバカリ>
生きてあることの光を信ぜよ
<生キテアルコトハ闇デハナイカ>
死んで無いことの光を信ぜよ
<死ンデナイコト ソレコソマサニ闇デハナイカ>
くりかえしは、その内部に、まったく反対のものを含んでいる。あることがらがくりかえされるとき、それとはまったく逆のことが、その内部でくりかえされる。いや、内部ではなく、外部かもしれないが……。
いや、内部は外部であり、外部は内部である。それは、つまり、螺旋なのだ。
生死つらぬくまことの覚悟はただひとつ
<万物は
たえない螺旋の循環なれば
生き死にの
あらゆる明暗
あらゆる恐怖はあたりまえ
「くりかえし」は「循環」とここでは呼ばれている。そしてそれは「螺旋」である。正反対のものが内と外、表と裏にぴったりと切り離せない形でくっついている。だから、それは、「螺旋」というねじれを描いてしまう。
そして、これからが、八重のいいところなのか、課題なのか、評価が分かれるところだと思うが、八重のことばは「螺旋」を描くに従って、「暗礁(リーフ)」のことばがもっていた「具体性」を失っていく。次第に「抽象的」になっていく。この過程を「精神の純粋運動化」ということもできるかもしれないが、私には、ちょっとついていくのがつらくなることばである。
「円錐尖点詩論」。
宇宙は倒立円錐であると断定せよ
天空をなすその底円の半径は無限 もちろん
深さも さらに無限
ビッグ・バン以来のすべての時間をはるかに超えて--
さまざまな事象 さまざまな歴史 さまざまな感情いっぱいつめて
倒立円錐はその体積の圧力で針よりもほそい尖点となって
頭のま上からあなたをつきさす
「くりかえし」は、ここでは「さまざまな事象 さまざまな歴史 さまざまな感情いっぱいつめて」という行の「さまざま」ということばで表現されている。「さまざま」とは「複数」に見えるが、実は「くりかえし」という「ひとつ」である。その行における「複数」は「さまざま」ではなく「事象」「歴史」「感情」である。そして、「事象」「歴史」「感情」は、それぞれ独立したものではなく、「巫」の詩で見たような「表裏」あるいは「外部・内部」である。そこに書かれている「事象」「歴史」「感情」ということばが2種類ではなく、3種類であるために、「表裏」「内部・外部」という関係をはみだしているように感じられるけれど、それは3種類の「螺旋」である。この詩では3種類のものが螺旋を描き、その螺旋は次第に拡大し(あるいは凝縮し)、「倒立円錐」を形作っている。
とてもよくわかる。とても明解な「数学」(あるいは物理)である。
だからこそ、私は、ついていくのがつらい。ついていけない、と感じてしまう。
「頭のま上からあなたをつきさす」という行。そこに「頭」が登場するが、あ、まさに、ここに書かれていることは「頭」で把握し直した何かである。「肉体」(肉眼)が消えてしまっている。--肉眼を超越して、頭脳が世界を再構築している、といういい方もできるかもしれない。
詩のことばが、ここまで「純粋化」されてしまうと、「誤読」の楽しみがない。
あ、私の書いていることは「誤読」の最たるものかもしれないけれど、その「誤読」が、ここでは許されない--そういう意味で「誤読」の楽しみがない。
谷内の書いていることは誤読だ--という批判は、私は、とても気に入っている。私はいつでも「誤読」できるから文学はおもしろい、と考えるのだけれど……。というか、どこまで「誤読」を拡大できるか、私のほかにたとえば「だれそれはこんな誤読をしている」「だれそれはもっとへんなこと(?)を感じている」というふうに、ありえない読み方をどれだけ抱え込むことができるかが、文学の「評価」のひとつとしてあっていいと考えているのだけれど、八重の「円錐尖点詩論」というような詩は、どこかで「誤読」を拒絶している感じがある。「正解」を詩が内部に抱え込んでいる感じがする。「正解」が八重の「頭」のなかにある感じがする。
それが、私には、つらい。
言いなおそう。
「暗礁(リーフ)」でも、「答え」というか、八重自身が考えていること、感じていることが、八重の「頭」のなかにあるといえる。そして、それと違うものを「誤読」と八重は言うかもしれない。(そう言って、かまわないと私は感じている。)けれども、そういう「反論」がたとえ八重から発せられたとしても私は気にしないのである。「暗礁」の場合は。
「暗礁」では、たとえば「脱皮」とか「蛇」とか「しら波」とかということばがある。それは、八重の「頭」のなかの何かをあらわしているかもしれないけれど、八重の頭とは無関係に、実際に、そこに存在する。存在するものとして、私は感じている。「真理」(生死つらぬくまこと)は、八重の「頭」のなかではなく、「脱皮」「蛇」「しら波」そのもののなかにある、と私は感じるからである。
それは八重の「頭」のなかにあるものと違っていたっていい、と私は思う。
でも、円錐尖点詩論」のことばは、その根拠を、八重の「頭」のなかにしか置いていない。そう感じて、私は、あ、ついていくのがつらい、と感じるのだ。
この詩には、八重の「思想」が純粋なことばの運動として書かれている--はずである。だから、それは、この詩集のいちばんいい部分である、かもしれない。でも、そんなふうに純粋に「頭」になってしまったことばは、私には、つらい。
あ、これは、単純に好みの問題かもしれないのだけれど。
私は、「暗礁」など、前半にある詩が好きだ。後半にいくに従って、ことばが「頭」のなかだけを動き回る感じがしてきて、つらくなる。もっと南の島の「空気」を感じたいなあ、という気持ちが強くなる、と書けばよかったのかもしれない。