佐々木安美「新しい浮子」ほか | 詩はどこにあるか

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佐々木安美「新しい浮子」ほか(「一個」3、2010年春発行)

 佐々木安美「新しい浮子」はおもしろい詩である。おもしろい詩であるけれど(おもしろい詩だから?)、どこがおもしろいか書くのは難しい。いや、めんどうくさい。
 書き出し。

からだを斜めに細らせなければ 入れないところに収まって
わたしは思っている 新しい浮子が欲しいと
そうすればだれよりもたくさん釣れる
そうすればこんな窮屈なところに挟まったまま
身動きできない状態から 抜けられるはずだ

 釣り堀(?)、あるいは池で、釣りをしてるんだろうな。うまく釣れない。きっと、へたくそな釣り人が来ているなあ、というような視線を感じながら、人の間へそっとはいらせてもらって(もらって、という感覚がきっと大切)、いっしょに釣らせてもらっている。
 そして、いい浮子があれば私だって一流の釣り師になれる、釣れないのは浮子のせい、なんて思っている。自分をこの窮屈な場所から(陥没した人生から――あ、こういうことばが、実際に、詩の後半に書かれている)、浮子が救い出してくれる、なんて思っている。
 まあ、そういうことは「ほんとう」ではないのだけれど、その「ほんとう」ではないことを夢想する「正直」。それが、ことばを動かしている。その「正直」さと、書かれていることばの「大きさ」がとても釣り合っている。無理がない。自然に動いている。
 そして。
 この「正直」は、この詩で完結しない。次の詩に続いて行く。
 ページをめくると、「古い浮子」という詩がある。

以上のことを思いながら わたしの意識はふたたび夢の中に戻されてきた

 変でしょ?
 変だよね。「新しい浮子」というタイトルの詩はちゃんと完結しているのに、ページをめくると「古い浮子」という詩があらわれて、実はこの詩は前の「新しい浮子」のつづきです、というのは。
 反則、とは言わないけれど、こんな書き方していいの? こんな書き方していたら、詩がおわらない。どこまで続いていくかわからず、ずるずることばが動いていくなんて、変だよ。
 そう言いたくなるよね。

 でもねえ。
 現実って、そういうもんだよね。
 区切りがない。一応区切りをつけてみるけれど、区切りをつけたはずのものが、何か新しいこと、さっきとは別なことをしていても、ふいによみがえってくる。そして、ああでもない、こうでもない、と考えてしまう。ことばを動かしてしまう。
 これって、なんでも区切りをつけて、スパッと物事を切り替えるより、ずっと「正直」じゃない? 
 だらしがない、踏ん切りがつかない、なんていう批判もあるかもしれないけれど、「正直」だよね。わかるよね、その「正直」さ。
 その、変な(?)「正直」が佐々木のことばを貫いている。

わたしがもっともへらぶな釣りに没頭していた頃の
あけがたの いつもの釣り場に しかしなにか
巨大な生き物が深く息をしている気配があり
大気の微動が皮膚に触れる感じがあり
空の明度も不安定で 辺りがほのかに明滅している
深い息というのは 眠っているわたし自身の内部だと
そして沼と思えた底には青々と草が生えていて
なんだ くさはらの水たまりか しかし水面には
何本も浮子のトップが突き出している
ああ この夢は前にも見たことがある

 「この夢は前にも見たことがある」が象徴的だけれど、佐々木のことばは、何度も繰り返された体験のなかで、余分なものをそぎ落とされた「正直」なのだ。
 たった一回限りの純粋な思い――とは正反対。何度も何度の繰り返され、すっかりくたびれた「正直」。
 何度も繰り返すのは、それが必要だから。
 いいかえると、佐々木の「正直」は、繰り返しに耐えることのできる、しぶとい「正直」、使い込まれた家具や調度が必然的にもってしまうような艶に似た「正直」なんだなあ。

 と、ここまで書いて、私は映画「長江哀歌」を思い出した。ダムに沈む村の風景。食堂のテーブルや壁。テーブルの高さで、壁に雑巾のあとがある。テーブルを拭くとき、壁に雑巾が触れる。それが繰り返され壁に一種の「汚れ」がつく。その「汚れ」が美しい。清潔をこころがけてきた暮らしが作りだす「汚れ」なんだ。
 そこには静かな生活がある。

 いいなあ、これ。
 なんでもないことなんだけれど、ただずーっと見ていたい、そのことばのそばにいたい、そういう安心感をさそう「正直」が満ち溢れている。