高柳誠『光うち震える岸へ』(4) | 詩はどこにあるか

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高柳誠『光うち震える岸へ』(4)(書肆山田、2010年05月30日発行)

 高柳誠のことばは「論理」を装う。「論理」のなかへもぐりこむように動く。そして、そのとき、「具体」は「抽象」化される。あるいは「固有」をはぎとられる。「論理」は「固有」のなかでは動かない。少なくとも、高柳のことばの運動では。
 作品に則していうと……。
 この詩集では、高柳(話者)は「旅」をしている。そこには、たとえばスペインが、あるいはバルセロナが、そしてガウディが感じられるけれども、具体的ではない。サグラダファミリアもグエル公園も「固有名詞」として出てこない。

 「固有名詞」をはぎとって、動いていく運動。--それは「固有」なものが「本質」だからだろうか。それとも「属性」だからだろうか。

 疑問は疑問のままにして、ただ高柳のことばを追ってみる。「13」の部分。

バスは、街角から日常という空間を取り込んだまま出発し、その目的地に到着する。心が着替えをする暇もなく、次の場所に移動してしまう。

 ここには「具体」は何も書かれていない。どの街角か、街の名前は記されない。バスの名前も記されない。そして「日常」が「日常」という抽象のままのことばで動いていく。「目的地」も「目的地」という「抽象」にすぎない。読者は、それぞれにかってに「固有」をあてはめて、自己流に高柳のことばを読むことができる。
 そして、その「自己流」が「抽象」を「具象」にかえる。
 私の書いていることは少し前後するが、たとえば、高柳が「曲線」と書く。「曲線」の運動、建築物について書くとき、それは「曲線」としか書かれていないにもかかわらず、私は「ガウディ」という「固有名詞」をそれに結びつけ、さらには私自身のガウディ体験(バルセロナ体験)を結びつけ、「抽象」を「具象」にかえてしまう。
 高柳が書いていることが「抽象」であるにもかかわらず、それを「具象」の運動を、整理したものとして感じてしまう。
 そういうことは、「13」の部分では、たとえば「心の着替え」の「着替え」ということばによっても起きる。「心の着替え」自体は非常に抽象的なことばなのに、日々の「着替え」の感覚が、それをとても生々しい「具体」的な匂いのあるもの、肌触りのあるもの、感覚にからみついたものとして感じさせる。
 「抽象」しか書かれていないのに、なぜか「具象」として感じ、また同時に「具象」が「抽象」をまとっているので、そこには「論理」が書かれている、と感じてしまう。

 高柳のことばは、いわば「抽象」と「具象」を行き来している。そこには「抽象」と「具象」が適度に混じり合っているということになる。どちらかに偏ってしまうのではなく、その両方をバランスよく行き来し、「抽象」でも「具象」でもない領域を動いていく。
 そういうことに重なり合うことを「15」で書いている。

その下には、伸び展げられた海岸線がどこまでも続き、それを消し去ろうと波が押し寄せる。海と陸との境界線は、自身を規定するのが耐えられないのか、いつも曖昧なまま、伸びたり縮んだりする。

 海と陸、その海岸線は「抽象」と「具象」の境界線である。そして、ここに書かれている海、陸は、具象であり、同時に抽象である。「固有名詞」ではないから。
 この海と陸に、高柳は、さらに驟雨をつけくわえ、世界を立体化する。

再び驟雨が襲い、すぐにやむ。雨は直ちに海水と交じり合うのだろうか。交じり合うことに、何のためらいもないのだろうか。

 「交じり合うことに、何のためらいもないのだろうか。」ということばは、「心が着替えをする」というときの「着替え」に似たものをもたらす。高柳が書いていることは抽象にもかかわらず、いや抽象だからこそといえばいいのか、読者の(私の、固有の)具象を誘い込む。
 抽象の負の圧力に具象が誘い込まれていくということかもしれない。
 私自身のためらった経験、あれやこれやが誘い込まれ、思い出される。
 そして、それはそのとき具体的であると同時に、何か、高柳のことばによって整理され、ととのえられているような感じになる。

 あ、こんなふうに、一見「論理的」にみえるような感じでことばを動かす必要はないのかもしれない。私は、私の感想を「論理的」に書く必要はないのかもしれない。高柳のことばが「論理的」なのだから、私は、ただ思いつくまま書けば、知らないうちに「論理」を獲得できるかもしれない。

 思いつくままに(いままでも、思いつくままではあるのだが、さらに思いつくままに)書いてみよう。
 「16」。

烈しい日差しと透明な空気に、にわかに陽炎(かげろう)が立ち、世界の像をゆらめかせる。世界がゆらめくと存在の基盤が共振して、影となって浮遊していく。実は、世界は影からできている。

 この「浮遊」は最初にでてきた「浮遊感」の「浮遊」である。「影」は「不随」するもの。そして、その「不随」であるはずのものが、「実は」「不随ではない」。
 「実は」--これが、もしかすると、高柳のキーワードかもしれない。「実は」という「論理」を隠して、高柳のことばを動いている。「実は」はどこにでも補える。あるいは、「実は」を補うと、高柳のことばはもっと読みやすくなる(わかりやすくなる)。
 つづく部分に「実は」を補いながら読んでみる。「実は」はテキストにはない。私が書き加えたものである。
 世界は……。

存在そのものよりも、「実は」その影によってできている。存在は、「実は」光によって発現する仮象でしかない。烈しい日差しにゆらめきだす現象でしかない。影の陰影のうちにこそ、「実は」世界の本質は隠されているのだ。 

 なんと多くの「実は」が隠れていることか。そしてそれは、「不随」と「本質」を繋ぎ合わせている。交じり合わせている。交じり合わせ、同時に「実は」で交じり合っているものを分離している。
 「実は」はふたつのものが出会い、結びつく「場」なのである。



廃墟の月時計/風の対位法
高柳 誠
書肆山田

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