高柳誠の『光うち震える岸へ』は「旅」の詩集であるらしい。あるらしい、と書くのは、私はまだ複数の章(断片)で構成された詩集の00から10までしか読んでいないからである。全部読んでから感想を書けばいいのかもしれないが、何かが、「一気に読むな」と私に言っている。一気に読んではいけないことばなのである。
「00」の部分。
旅に付随する浮遊感。日常から断ち切られたところに拡がる領域。それらは、ガラスの水槽を通したかのような、絶えずゆれうごく透明感と距離感をともなって漂っている。現実のただ中を漂っている。いわば、映画の浮遊感。見る側ではなく、自分自身が映画の中の人物として登場したかのような現実感のなさ。現実であることは疑いえないのに、現実感が身体の傍らから蒸発していって、その分、自分の存在が日常の澱(おり)を剥がされて稀薄になり、それが独特の浮遊感を生み出して、次々とスクリーンの上の領域を移動してゆく原動力となるのだろう。
旅の浮遊感。「自分自身が映画の中の人物として登場したかのような現実感のなさ。」そのことを書こうとしている。そして、実際に書いているのだが、読みながら不思議な気持ちになる。
高柳は「旅の浮遊感」ではなく「旅に付随する浮遊感」と書いている。その「付随する」ということばが、この断片を読み終わったあと、奇妙にひっかかるのである。
「付随する」。つきしたがう。従属する。それは「本質」ではない。ほんとうは「旅」なのである。テーマは「旅」でなければならないのである。それなのに、その「旅」はどこかにおいておかれていて、その「本質」ではないものを読まされている。読んでいる。そういう感じが、私を不安定にさせる。
言いなおそう。
「旅」というのは、高柳が書いているように「日常から断ち切られた」世界へゆくことである。そこは「日常」ではない。それはそうなのだが、そんなことは、普通はいちいち言わない。もっと簡単に「旅」を語ることができる。ふつうは、「○○へゆく」という。「旅」には「目的地」がある。その「目的地」がここには書かれていない。「旅」の「目的地」は「旅」の「本質」である。
「付随する」ということは、そのことを明瞭に語っている。「旅」の「本質」は「目的地」である。「浮遊感」は、それに「付随する」ものである、と明確に語っている。
明確にそう書いてあるにもかかわらず、ことばは、それを裏切って動いていく。「本質」についてはなにも書かず、「不随する」ものについてのみ書いている。そして、そのことばを読んでいると、その「付随する」ものこそが「旅」の「本質」だと思えてくる。
どこへゆくか。「目的地」はどこか。それこそが「付随的」なものであって、「旅」の「本質」は、日常(現実)からの「浮遊感」にある。その「浮遊感」--「感じ」がどんなものであるかを明確にする--「感じ」としかいえないもの、あいまいなものを、ことばで辿ること、ことばで旅してゆくこと、それが「本質」である。
いつのまにか、「不随」と「本質」が入れ代わっている。「不随」が「本質」であり、「本質」は「不随」である。
あ、ことばが、混乱しそうである。この奇妙な入れ代わりを、ことばが重複しないように語りなおすことはむずかしい。
「付随する」ものは「付随する」ものでは「ない」。「本質」は「本質」では「ない」。そう言い換えるところで止めておかなければいけないのかもしれない。「付随する」ものは「付随する」ものでは「ない」。したがって、それは「本質」である、と言い換えてしまうから、「付随する」ものが「本質」で「ある」という「矛盾」にいたってしまうのだろう。
現実のただ中を漂っている。いわば、映画の浮遊感。見る側ではなく、自分自身が映画の中の人物として登場したかのような現実感のなさ。
高柳のことばをゆっくり読み直せば、そこに「現実」と「現実感のなさ」(ない)が、ぴったり寄り添っている。
「入れ代わらず」に「寄り添う」。
これが高柳のことばの運動の特徴かもしれない。
「入れ代わり」のなかには、「一」という概念がある。「主語」(主役)は「一」であるという概念がある。「一体」になり、それを凌駕していく。あるいは、止揚していく。弁証法的にいってしまうといけないのかもしれないけれど……。どういえばいいのだろう。「本質」は「一」である、という概念があると思う。
ところが、高柳は「一」をもとめていない。「一」ではないことをもとめて動いている。「寄り添う」ことで常に「複数」であろうとしている。その複数であることが、存在の「本質」であるとまで言えるのか(言おうとしているのか)、それはまだわからないのだけれど……。
あ、また、私のことばがかってに暴走してしまった。高柳が書いていることから離れてしまったかもしれない。
「寄り添う」。高柳のことばの運動は「入れ代わり」ではなく「寄り添う」。それを象徴しているのが、
現実感が身体の傍らから蒸発していって、
この部分の「傍らから」である。身体そのものではなく、「傍ら」に意識が動いていく。ことばが動いていく。「本質」ではなく、「付随する」ものにことばが動いたように。そして、そのとき、また不思議なことがおきる。
「身体」が「主語」ではなく、「傍ら」が「主語」になってしまう。「入れ代わる」ようにして、ことばが動いていく。どちらがどちらに「寄り添っている」のか、あいまいに、わからないまま。
あいまい、わからない、とはいうものの、こそに書かれていることばは、どれも「正確」に見える。もっといえば、「正確」を通り越して、ちょうどどの強い眼鏡で何かを網膜に焼き付けられたかのような、見えないものを強引に見せられたような、一種の酔いを誘い込むような強さがある。
現実感が身体の傍らから蒸発していって、その分、自分の存在が日常の澱(おり)を剥がされて希薄になり、それが独特の浮遊感を生み出して、次々とスクリーンの上の領域を移動してゆく原動力となるのだろう。
「日常の澱」「原動力」。ね、そういものって、「見えない」ものでしょ? その「見えない」ものが、いま、ここに動いている。ことばによって動いている。
と、書いて、またもとにもどってしまうのだけれど。
「浮遊感」「付随する」。あ、これもまた、「見えない」ものだった。
高柳は、その「見えない」ものを描くためにことばを動かしている。「見える」ものがあって、それを「描写」(写生)するのではなく、「見えない」ものがあって、それを「描写」(写生)する。
どんなふうに?
「距離感」を克明に描くことで。
「身体」と「身体の傍ら」を意識する「距離感」、くっついている? はなれている?よくわからない「領域」にことばを動かすことで、その領域でことばがどんなふうに動けるかを確かめるように。
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