西脇のことばは「もの」と向き合っているのか。「もの」と対応しているのか。つまり、「流通言語」のように、「りんご」ということばは「りんご」と向き合っているのか。これは、むずかしい。
セザンヌの「りんご」が「りんご」と向き合っているか--というと、私は向き合っていながら向き合っていないと思う。「りんご」ではなく、りんごの「形」「色」と向き合って、そこからその形と色を超越しようとしているという形では向き合っているが、「りんご」になろうとはしていない。
同じように、西脇のことばは、「もの」と向き合いながらも、「もの」とは向き合っていない。「もの」になろうとはしていない。
そして、これからが、ちょっと面倒くさい。
セザンヌの「りんご」が「りんご」になろうとしないことによって、絵画としてのりんごになるように、西脇のことばも「もの」になろうとしないことによって、詩のなかで「もの」になっていく。
あ、こんな書き方ではわからないね。整理して説明したことにはならないね。--でも、それ以上は、私には書けない。漠然と、私は、そういうようなことを考えている。西脇のことばを読みながら。
「神話」。
九月の末に
驚くべきひとに会いに
野原を歩いていたことがあつた
何も悲しむべきことがなかつた
粘土の岩から茄子科の植物が
なすのような小さな花をたらして
いるが悲しむほどのものではない
ここに書かれている「茄子科の植物」。これはもう「植物」ではない。「驚き」や「悲しみ」のように、人間の感情であり、そうであることによって、「ことば」になっている。
それは「混同」である。
数行先に、次の行がある。
つゆ草が
コバルト色の夏を地獄へつき落とそうと
している以外に
人間と神話との混同をみることが
出来ないのだ
「混同」することで、どちらでもなくなる。「もの」を「ことば」を超越する。それは「ことば」ではないから、それをことばで説明することはできない。できないけれど、そんなけとを言ってしまうと、批評(感想)というものは成り立たないので、不可能と知っていながら、こんなことを書いている。
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