「ふらんす堂通信」124 に金子兜太『日常』の抜粋が掲載されている。冒頭の句がおもしろい。
猪の眼を青と思いし深眠り
私は俳句は知らない。「深眠り」がもしかすると季語なのかもしれない。だが、まあ、季節とは関係なく、深い眠りのなかで猪と出会っていると思えば楽しい。このとき、猪は対象なのか金子なのか、ちょっとわからない。猪の目が青いと思うのもいいけれど、もし自分が猪なら目は青だぞ、と決めて(句では、「思い」と書いているが、「思う」のうちには、「決める」というこころの動きもあるだろう)、深い眠りに入る。
青い目の猪--というのが、ちょっと「異界」を感じさせ、なんだか、その異界の「王」にでもなった感じ。百獣の王といえばライオンだが、ライオンのいない日本では狼か猪くらいが百獣の王だろう。狼のようにいかにも狂暴そう、こわそうというのではなく、体つきがなんとなく愛嬌もある猪。でも、強い。そのあたりのアンバランスも、夢見るにはいいかなあ。
木や可笑し林となればなお可笑し
これは、おかしいね。林は木がふたつ。そりゃ、おかし+おかし=なおおかし、だね。「山笑う」というようなことばも、ふと思うねえ。山には木がたくさん。「おかし」×無数。笑ってあたりまえだね。
でも、そう考えると、またおかしいねえ。
「木や可笑し」と思っているのは「私(金子)」。木二本(?)の林は「可笑し可笑し」、木が無数の山なら「可笑し×可笑し」になってしまうかもしれないけれど、そう思うのは「私(金子)」。で、笑うのはたいてい「おかしい」と思っているひと。金子だね。「山笑う」は「山が笑う」ということであって、金子が笑うというのとは、違うね。木がいくらおかしくても、その木が何本集まっても、おかしいと思うのは「私」であって、山(木)自体がおかしいと認識するわけではないから、笑わないね。
こうやって、論理的(屁理屈的?)にことばを動かしていくとわかるのだが、俳句というのは、どこかで「私」と「対象」が溶け込んでしまって、区別がなくなる世界だね。
「山笑う」は山の緑が萌え出てきて、急ににぎやかになる、華やかになる様子をいうのだろうけれど、その山の木々そのものがおかしいと感じ、それを笑う「私」が存在すると、その「笑い」のなかで、世界そのものが融合する感じがする。笑っているのは、山? それとも「私」? こんな質問は、くだらないね。山が笑えば私も笑う。木がおかしければ、それを見て笑う私もおかしく、同時に楽しい。楽しさのなかで、木と「私」の区別がなくなる。
「木は可笑し」というとき、木は木ではなく、木は「私」なのだ。同じように「林」というとき、そこに林があるだけではなく、その林そのものが「私」なのだ。対象と「私」は結びついて、離れない。その分離不能な状態のなかでことばが動くと俳句が生まれるんだろうなあ。
走らない絶対に走らない蓮咲けど
これは、医者から「走ってはいけません」と止められている金子の様子かな? 蓮が咲いている。それが見える。もっと近くでみたい。近くで一体になりたい。その気持ちが肉体を「走る」にむけて動かす。でも、先生は「走ってはいけない」と言った。走らないぞ、走らないぞ、とことばで言い聞かせている。言い聞かせれば言い聞かせるほど、肉体は走りたがる。
その矛盾と、蓮の、豪華な感じの対比がいいなあ、と思う。
一方、(何が一方なのかしら、と書きながら思ったけれど……)
頂上はさびしからずや岩ひばり
この清潔な感じも、おかしくていいなあ。
![]() | 句集 日常 金子 兜太 ふらんす堂 このアイテムの詳細を見る |