小池昌代『怪訝山』(2) | 詩はどこにあるか

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小池昌代『怪訝山』(2)(講談社、2010年04月26日発行)

 小池昌代が書こうとしている「いまこのとき」。その矛盾したというか、どこにも属さず、ただ生身の身体だけがあって、それが「ここ」ではないどこかへとつながってしまう感じ--それは詩、というものかもしれない。
 「いまこのとき」は「いま」から離れて、「いま」ではなく「過去」「未来」、「ここ」から離れて「どこか」と結びつく--いや、融合する。「空白」として、融合する。
 その瞬間に、詩があらわれる。
 小池昌代は、私にとっては小説家であるというより詩人なので、私はどうしても彼女の文章に詩を読みとってしまう。 
 たとえば、「木を取る人」の書き出しのあたり。湯船に入って、栓をぬく。お湯がなくなり、裸の体が残される描写。同じことを、小池は2度繰り返して書いている。1度では書き足りずに2度書いている。

 その、一瞬手前に宿る認識のようなもの。

 2度書きながら、「その、一瞬」と強調するときの「その、」が「いまこのとき」である。「いまこのとき」には、意識が過剰にふくまれている。過剰であることによって、「いま」を超え、「過去」「未来」、あるいは「ここ」ではない「どこか」と融合し、その瞬間に、それが「いま+ここ」、つまり「いまこのとき」になる。

 いま、私は、偶然のようにして、「いまこのときに」なる、と書いたが、その「なる」ということが「いまこのとき」に起きているすべてかもしれない。そして、何かが何かに「なる」という変化の瞬間こそが詩なのだ。
 「なる」ということばをつかった文章がある。そして、こそに詩があらわれてくる部分がある。「木を取る人」の後半部分。

 役割を終えた雑巾は、バケツの端に広げられてかけられる。その表情は、よく使われたモノだけが持つ、さばさばとして、いい具合にくたびれた感じがあった。義父の手にかかると雑巾さえも、それにふさわしい、ある輪郭を取り戻す。雑巾は雑巾になり、きみしぐれはきみしぐれになる。

 きのう書いた「怪訝山」にもどれば、「いまこのとき」、美枝子は美枝子になり、イナモリはイナモリになる。コマコはコマコになる。それは「過去」でも「未来」でも、「いま」でもなく、ほんとうに「いまこのとき」なのだ。意識の空白において、思うとき--その矛盾のとき。
 そういう「とき」に私はひきつけられる。すいこまれる。

小池昌代詩集 (現代詩文庫)
小池 昌代
思潮社

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