詩集の4作品目で、やっと「音」が出てくる。「タオヤカ」。
カンチ、カンチ
ミセス・カンチは
クマトリー街に住む 女偉丈夫
三十歳 工房をしきる親方である
「カンチ」は名前。最初の1行は、「意味」的にはなくてもいい。省略して2行目からはじめても「意味」はかわらない。けれど、小池は「カンチ、カンチ」と繰り返したあと「ミセス・カンチ」と言いなおしている。
小池は、ここでは「他人」に出会っている。一葉でも、ウルフでも、石牟礼でも、泰淳でも、タゴールでもない。知らないひと。その「他人」であるひとの、最初のことば「名前」である。「名前」の「音」である。
その女の描写は、あるいはその女にかぎらないけれど、ひとの描写は「名前」からはじめる必要などない。けれども、小池は「名前」からはじめる。「名前」、その「音」からはじめる。「音」を「肉体」のなかに取り込み、外に「声」にして出す。そういうことを繰り返して、「音」そのものを「肉体」になじませる。ぎこちない「音」ではなく、自分になじんだ「音」として、女に近づいていく。
「声」として近づいていく。
「バルバザール・朝」には、
男たちはみな 痩せていた
焦げた瞳で ぶしつけに見た
だからわたしも 見返すのだ
見て 見返す
ことばのない 視線の群れが
蒸され もうもうと湯気をたてる
という行があった。「ことば」をもたない視線は、互いを拒絶し合う。その拒絶を距離を乗り越えて、小池は「カンチ」という音から、いま、目の前にいる女に近づいていく。「名前」を呼ぶことで、私はあなたを知っている、知りつつある、もっと教えて、と近づいていく。
そして、女が祭壇に飾られる女神の像をつくっていることを知る。女の仕事に一族のいのちがかかっていることを知る。何のためにつくるのか。
「食べるためよ ああ、食べるために作るのよ」
小池は、そのことばを「声」をとおして聞く。そのとき、小池は、「声」とは別に「視線」でも女と、その一族を見ている。
一族は
彼女のかせぎにかかっている
ああ 樋口一葉 だわね
工房を出て 家へ着くと 奥から わいてくる
おば おじ めい いとこ たにん
「食べるためよ ああ、食べるために作るのよ」
なにを聞いたのだったか わたしの質問に
彼女は 半ばあきれ 半ば絶望し 吐き捨てるように言ったのだ
「おば おじ めい いとこ たにん」は「視線」がとらえた「存在」である。その「一族」と小池は、ことばでは「交流」しない。「名前」は省略して、ただ視線で、出会う。その出会いのなかに
たにん
がいる。
この1行は、とてもおもしろい。興味深い。「声」をかける。「名前」を呼んでしまうと、そこには「他人」ではない何かがあらわれてくる。「視線」では「他人」であったものが「他人」ではなくなる。
そういうことを意識しながら、小池は、「声」をとおして女に近づき、女から「声」を受け取る。そして「他人」ではなく、視線で拒絶し合う「他人」ではなく、いっしょに生きている人間になる。
それを描いた次の部分がとても美しい。
「食べるためよ ただ 食べるために作るのよ」
それなのに カンチは泣いてしまう
「祭礼の最後 わたしの作った女神像が
みんな ガンジス河に流されてしまう
見ていられない 見ることなんか できない
いままでだって 一度も見たことがない」
女神の像は泥で作られている
すべてが終わったら 河へ流す
それを思って
わたしもカンチといっしょに泣いた(心のなかで)
その声はまるで産声のよう ね
「泣く」--その「声」が「産声」。
私は先日、ヤン・イクチュン監督の「息もできない」を見た。(05月01日の「日記」に書いた。)その映画では、やくざの男と女子高校生が出会う。その映画のハイライトのシーンで、男と女は涙を流して、「人間」に生まれ変わる。(最後に、男は血を流して死んでしまう。人間は血を流すと死ぬが、涙を流すと生まれるのだ。)それを、ふと思い出した。
泣くことによって、いま、カンチという女と、小池がいっしょに生まれ変わっている。その泣き声は、「悲しみ」あるいは「絶望」かもしれないが、同時に「産声」でもあるのだ。「産声」であることを、小池は実感している。
この「産声」、その「音」。この世に生まれてきて、最初にあげる「人間の声」。この「声」は不思議だ。それは「世界」で共通している。どこの国でも「おぎゃー」と泣いて生まれる。「おぎゃー」と叫んで生まれる。その「声」を聞いて、赤ん坊が生まれた、ということ以外を想像できる人間はいない。
ひとが、丸裸で、つまりどんな「意識」(「頭」で考えたあれこれのことば)をほうりだして、無防備でつかみとる真実。「いのち」の「誕生」。
いま、この瞬間、小池は、ことばを「音」として、「声」として取り戻したのだ--それがつたわってくる詩である。
ここから、小池は生まれ変わっていく。
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