ヤン・イクチュン監督「息もできない」(★★★★★) | 詩はどこにあるか

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監督・製作・脚本・編集・出演 ヤン・イクチュン、出演 キム・コッピ

 大傑作。「長江哀歌」を見たときは10年に1本の映画だと思ったが、これもまた10年に 1本の映画。すると、10年に2本の映画になってしまう。私の書いてきたことは「うそ」になってしまう。
 だから、書き直そう。
 「長江哀歌」が「もの」の静かないのちを描いていた「10年に1本」。「息もできない」は「肉体」のあらあらしいいのちを描いた「10年に1本」。そういう違いがある。そういわなければならないほどの大きな違いがある。
 人間が生きていくとき、「もの」と向き合う。また「人間」とも向き合う。
 「長江哀歌」は「もの」としっかり向き合っている。たとえばテーブル。テーブルで食事をする。食事が終わったらテーブルを拭く。そういうことが積み重なって、無地の木肌が艶をもつ。そこに美がうまれる。また、そのテーブルが壁際にくっついているときは、テーブルを拭く布巾が同時に壁をこする。そうすると壁に静かな汚れ(くすみ)が残る。積み重なって、静かな「時間」の美になる。時間は、もののなかで、「汚れ」という美を生み出す。「汚れ」に見えるものの奥には、「いのち」の連続、暮らしの積み重ねがある。それを丁寧に、静かに、「長江哀歌」は語っていた。
 「息もできない」は、なによりも「肉体」のいのちを描く。
 人間のいのちは「肉体」の形をとってあらわれる。そのなかには「時間」ではなく「血」が流れている。「血」はやっかいである。「血」は「肉体」の外に流れだしてしまえば、「肉体」は死んでしまう。人間は死んでしまうからである。「血」を内部にかかえつづけて、人間は生きなければならない。それは父と母を内部にかかえて生きていかなければならないということである。
 父と母とはひとりではなく、ふたりの人間である。そのふたりのあいだからうまれた子どもはひとりでありながら、ふたりの「血」をもっている。それが人間を複雑にする。「血」が「肉体」のなかで、父と母の喧嘩のように対立する。それをどうしていいのか、たとえば主人公の男はわからない。わからないから、「血」をなだめるために暴力を振るう。制御できない悲しみが「血」を刺激し、その刺激がひきおこすものをどうしていいかわからないまま、暴力を振るう。
 その瞬間、男は父であり、母である。男はしっかりと殴られる人間を見ている。それは父が母を殴ったとき、母を見つめている目である。暴力を振るう主体として男がいて、殴られる人間が別にいるために、男は父の暴力的な「血」だけを引き継いで生きているような印象があるかもしれないけれど、男は目で、その他人に危害をくわえることのできない「肉体」で、母を見ている。そして、殴られる母をも生きているのである。
 父と母--そのふたりの「血」を内部にかかえて生きるには、男には、それしかないのである。
 最後、やさしさを取り戻し、やくざから足を洗おうと決めた男が、借金取り立てに行った先で幼い子ども(ちょうど彼自身がそうであったように男と女のきょうだい)を見る。そのとき、男は、暴力を振るいつづけた父ではなくなっている。その変化は、部下のチンピラの神経を逆撫でし、彼によって叩き殺されることになる。そのとき、その男の「肉体」から血が流れる。血が男の顔を汚していく。血を流してしまうことによって、男とは「人間」の温かさを生き、同時に死んでしまう。
 この矛盾。
 死なないことには、男は生きられないのである。
 死んでしまって、そのあと、男は、彼がであったすべての人間のなかで、見えない「血」となって、流れる。それは、生きている人間の「血」、いま生き残っている人間の「肉体」のなかの、父と母の「血」を、おだやかになだめる力となって、流れる。焼き肉屋の楽しい登場人物たちの団欒は、そのことを雄弁に語っている。

 あ、もうひとりの主人公女子高校生のことについて書かないうちに、ラストというか男の「いのち」を書き終えてしまったが……。
 男が父の生きかたを「肉体」で反芻してとしたら、女子高校生は母の生きかたを「肉体」で反芻している。殴られても、常にいっしょにいつづけた母--その不思議な謎を「肉体」で反芻している。なぜ、暴力を振るう父から逃げないのか。なぜ、ひとりで生きていかないのか。なぜ、殺されなければならないのか。殺されることが、母、なのか。
 男が他人を殴りつづけながら、その殴られている人間に母を見たように、少女は殴られている人間の側から殴る人間を見ている。そのとき、少女は見ることによって、他人を殴る。他人に抵抗するのである。実際の母は、殴る父を見なかったかもしれない。自分の肉体を守るために、体を丸くして、とても父を見ることはできなかったかもしれない。だからこそ、少女は、その母のかわりに、しっかりと相手を見る。
 男と少女の出会い。そこに、その瞬間がよくでている。
 少女は目をそらさない。やくざの男にひるまない。しっかりと、目を見つめる。怒りをあらわす。少女は肉体でも多少は殴りかかっているが、それよりももっと激しく、目で男を殴っているのである。
 男は手と足で少女を殴る。そして殴られる少女を目で見る。少女は殴られながら、目で男を殴り返す。体全体で男の暴力を受け止めながら、目で反撃する。そうしながら、男の「肉体」から「血」が流れ出てしまわないように、それを守っているようでもある。
 途中、男が少女に甘えるように「どうやって生きていけばいいんだろう」と訪ねるシーンがある。そしてふたりとも泣きだしてしまう。
 「血」を流すとき人間は死んでしまうが、「涙」を流すとき人間はしっかりと生きはじめるのである。これは、とても美しいシーンだ。 100年に一度の感動的なシーンである。ふたりは何も語らず、ただ泣くのだが、そのときの「泣く」は、赤ん坊がうまれてきたときに「泣く」としっかり重なり合う。いのちが誕生するとき、その誕生の宣言に、人間は泣くのだと思った。

 この映画は、手持ちに金がないのなら、銀行で金を下ろしてでも見るべき映画である。2010年のベスト1は、これに決まり。ほかはありえない。ぜひ、見てください--ではなく、ぜひ、見なさい。絶対に、見なさい。