きのう読んだ松岡政則のことばが「肉体」の「正直」にゆさぶられながら動くことばだとすれば、水島英己「同じ空間で」のことばは、それとは逆に、「ことば」の「うそ」に引き剥がされながらことばが裸になっていく詩だと思う。
アレクサンドリアの
玉ねぐくさい部屋。
句読点が皺や浮腫の代わりに背中の文字になる。
アレクサンドリアの
排水の悪い部屋からあなたが出てくる。
ここには、水島はいない。水島が肉眼で見たひとはいない。そこにあるのは、水島ではない人間が見た「ことば」である。カヴァフィスの「ことば」が水島のことばを引き剥がしているのだ。
「玉ねぎくさい」が、水島をゆさぶる。水島のことばが裸にされて、それが「現実」になる。反応し、共振し、その震えだけが、「詩」なのである。
言い方をかえよう。
「玉ねぎくさい」なんて、きっと水島は知らない。「玉ねぎくさい部屋」なんて、水島は知らない。そして知らないからこそ、その「うそ」の向こうに、「ほんとう」を見てしまう。知らないことばだけが「ほんとう」を運んでくるのだ。
このとき「ほんとう」を判断する物差しを水島はもたない。そして、その物差しがないことが「うそ」を「ほんとう」にするのだ。やってきてしまえば、それはすべてその主観に「ほんとう」になる。
いや、やってくるのではない。実際には、水島が、その向こうへ行ってしまうのだ。行ってしまうといっても、水島の「肉体」がそこへいくのではない。ことばへの「あこがれ」が、その向こうへ行ってしまうのだ。
こういう動きは、いいことか、悪いことか、私にはわからないが、そういう動きが必要だということはわかる。知らないもの、それまでの自分のことばがつかみとったことのないもの--それに対して純粋にあこがれるという力、その力が、いま、ここにないものをつかみとる。
そのとき「うそ」が「ほんとう」にかわる。
あこがれに「うそ」はないのだ。
ここに立たせておいてくれ、
朝焼けの二重の色、紫と青がまざりあっている空
立ち去ってゆく夜の背中
やって来る朝の名前
深い沈黙
「そうでなければならない」
欠けているものを何一つ満たしてはならない
あこがれとは「欠けているもの」を知る力である。それはけっして「満たされない」。「満たしてはならない」というのは、だから「矛盾」である。「矛盾」だから、そこに詩がある。
「満たされない」ということを承知で「満たしてはならない」という。そのとき、「みたされない」ということを、「正直」は「うそ」によって守るのである。それは隠蔽でありながら、同時に暴露である。その結びつきのなかに、水島のことばの「ほんとう」がある--と、私は書きたい。書いておきたい。
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