梅田卓夫「山羊だった頃の記憶--ふるさとの廃家」は思い出を書いている。
こどもの頃、父が山羊羊を飼ったことがある。山羊はいつもこの木の下にいた。わたしは学校から帰ると、ここへ来て山羊を見た。山羊の目は金色で、瞳孔が横長の四角。じっと見つめてくるのだが、ほんとうに見ているのか、見られているのか、わからない。わたしのうしろ、わたしをこえたもっと遠くを見ている。
「じっと見つめてくるのだが、ほんとうに見ているのか、見られているのか、わからない。」この部分がとても好きである。ここには「主語」のねじれがある。「主語」を補うと、さらに分かりやすくするために補語を補うと、
「山羊は」じっと「わたしを」見つめてくるのだが、「山羊は」ほんとうに「わたしを」見ているのか、「わたしは」見られているのか、「わたしには」わからない。
「山羊」と「わたし」がいつのまにか「主語」の位置を入れ代えてしまっている。「主語」が入れ代わってしまっている。その「入れ代わり」があるから、「わからない」ということのなかに「不透明さ」のようなものがひろがり、それがおもしろいのだ。
この「入れ代わり」があるから、この詩の、次の展開がとても自然である。
一度、山羊の首を抱いたことがある。山羊は、腕のなかでじっとしていた。それから腕をゆるめると、ゆっくりと首をふりほどいてわたしを見た。家にはだれもいなかった。あのときわたしは山羊になったのだ。そうして、そのあと、目の前から離れていく一人のこどもを、前脚をそろえて見送ったのだ。
「あのときわたしは山羊になったのだ。」山羊の首を抱いたことも、山羊がその首をふりほどいて「わたし」を見たことも、家のだれも知らない。それは山羊と「わたし」だけの秘密である。
そして、そのときの「山羊になった」というのは、「一体感」を超えている。山羊と一体の気持ちになったというのではないのだ。それ以上なのだ。
先の引用の部分で、私は「主語」である「山羊」と「わたし」が入れ代わっているとかいたが、ここでも正確に(?)入れ代わっている。
「山羊」になってしまったからこそ、それより前の、あのとき、山羊がみていた「わたしのうしろ、わたしを超えたもっと遠く」が見えたのだ。
目の前から離れていく一人のこども
それは、単に「山羊」の目の前から去っていくこどもではない。それは「ふるさと」という世界から去っていくこどもである。山羊になって、梅田は、自分の運命(わたしを超えたもっと遠く)を見たのである。
この悲しみは美しい。
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