北川有理「比喩でなく --母に」は母の死を描いている。その最後の方。
何から何まで
許すべきでないことを受け入れ
受け入れるべきでないことを受け入れ
あげくのはてに おもむろに
おのれの屍を打ち上げる
「水」と「人」と「母」から成るひとつの
かけがえのない「海」の
うそのような
消失は
「海の中に母がいる」と言ったのは、三好達治だっただろうか。
北川の書いていることは、そのことと少し通いあうかもしれない。北川も「海」という文字を分解している。そして、そこに「母」を見ている。
北川が三好と違っているのは、「母」を見るだけではなく、そこに「人」を見ているからである。「水」は「さんずい」、「人」というのは「毎」の「母」の上の部分。「ノ」を書いて「一」。活字でみると「人」とは違うが、手書きだとたしかに「人」にもなる。
「毎」というのは確か「くらい」というような意味があったと思う。水が暗い。水がたくさんあって、広くて深くて、暗くて、限りがない。だから「さんずい」と「毎」を組み合わせて「海」。
その組み合わせのなかに北川は「人」を持ち込む。広くて、深くて、暗くて、限りがない、「母」を覆っている「人」--その「人」というのは何なのか。
最終連。
瀑布のかなしみを
盃でしか掬えない
器小さき娘に
はたして
見通せる日は来るのだろうか
「人」というのは「かなしみ」である。「人」の「かなしみ」が「母」の上にかぶさるとき、そこには広くて、深くて、暗くて、かぎりない「生きかた」が浮かび上がる。つまり、その直前に書かれている行、
何から何まで
許すべきでないことを受け入れ
受け入れるべきでないことを受け入れ
という姿が。
「人」は「母」の上に多いかぶさっているのではなく、「母」は「人」を支えているのだ。そして、その「人」のなかには「娘(わたし・北川)」も含まれる。「わたし」を支えてくれた「母」。
「海」という漢字は、押し寄せる「水」に溺れないように「人(娘)」を「母」が下から支えているという姿でもある。「母」はぬれてもかまわない。溺れてもかまわない。「人(娘)」は、けれど「水」から守るのだ。
そのときの、ぬれてもかまわない、溺れてもかまわないという「生きかた」のなかに「かなしみ」がある。「かなしみ」とは「悲しみ」と書くが、あるときは「愛しみ」とも書く。「愛」があるからこそ、あらゆる「かなしみ」が生まれる。
最終連は、母の「かなしみ(愛)」はナイアガラの滝のようにつきることがない。その愛にどうやってこたえることができるだろうか、けっしてできない、という北川の痛切な、自分自身への怒りを込めた「悲しみ」である。
北川は、「悲しみ」をとおして、「愛しみ」に出会っている。
*
山口賀代子「さかな」は、体が透明で、骨や内臓が見える魚と「わたし」を重ね合わせている。「わたしのからだは透けはじめている」と書きはじめられことばは、次のように動く。
ひとであるわたしのからだが透けるのは せいじょうなすがた ではない やがて骨のかたちくずれ ひとのかたちをうしなえば わたしはそんざいしない たとえこのまま骨がのこっても わたしのちとなり にくとなるものがない ちとにくがのこっても わたしそのものがいない わたしはわたしではないなにものかになる
「わたしはわたしではないなにものかになる」。このことばに、はっとしてしまう。どきどきする。
「わたしではないなにものかになる」--の、その「なにものかになる」が何であるか知るためには、たぶん「透けはじめている」と書いたときの出発点にもどらないといけない。出発点から追いかけないと、「わたし」がどんなふうに動いているか、わからない。山口は、どんな具合に、いつから「透けはじめ」たのか。
詩のつづきに、その手がかりがある。
わたしのいのち わたしのこえ わたしのほほえみ わたしのこころ わたしをわたしとしてかたちづけいてるすべてのもの 言葉にも 活字 にもできないそれらのものたちが 透きとおって みえなくなる それは 無 になるということなのだろうか それとも 空 になるということなのだろうか
ふいに登場する「言葉」「活字」。
「言葉」「活字」は、「流通言語」の「定義」でいえば「からだ」に属さない。「わたしの言葉」「わたしの活字」というものは、存在しない。「言葉」「活字」はみんなに共有されて存在しているものであり、それを「わたし」に帰属させることはできない。そういう「わたし」に帰属させることもできないものも含めて「透きとおる」--とは、ほんとうは、山口は書いていないのだけれど、私はそう読んでしまった。
「いのち」「こえ」「ほほえみ」など、動きつづけるものが「わたし」の「からだ」のなかにある。そういうものを、ひとは「言葉」(活字)にすることで存在させている。そういうものが「透きとおる」と、それに結びついている「言葉」(活字)も「透きとおって」もみえなくなる。存在しなくなる。
そういうことがあるのではないか。
そして、それは「無」か「空」か。
山口は、唐突に、そんて問いを投げ出しているが、私は、山口のこの詩の「解説」から脱線して、ちょっと違うことを考えた。いつもの「誤読」である。「誤読」であるから、ここから書くことは、山口の詩から大きく逸脱しているかもしれない。あるいは、大きく逸脱することで、逆に山口の内部に入り込むことになるかもしれない。
ことばを書く(活字にする)ということは、何かしら自分の「内部」を見つめることである。それは、山口が書いている「透明な魚」のように、骨や内臓を見えるようにすることかもしれない。皮膚(表面)を透明にしたあとは、骨、内臓の内部を見えるようにしなければならない。さらに、細胞の、細胞核の内部さえ、見えるようにしなければならない。そういうことをつづけていくと、もう何もかもが「透きとおる」。何も残らない。そういう状態になるかもしれない。
けれど。
ことばは、誰かが読む。そして、山口が書いたことばは、山口の知らないところで、山口のではなく、その見知らぬ誰かの「骨」にもなれば「肉」にもなる。「血」にもなる。山口は「なにものか」としかいいようのない「見知らぬ人・他人」になるのだ。
書くということは、「他人」になることだ。
そして、この「他人」というのは、かならずしも「わたし」の「からだ(肉体)」のそとにのみ存在するわけではない。最初に書かれたことばを読むのは山口自身である。そこにいま、書き記したばかりのことばを、山口の意識ないし山口が読む。そして、そこから変化がはじまる。「わたしはわたしではないなにものかになる」。それが、書くという「冒険」である。
それは「無」でもないし、「空」でもない。
確認するために、山口は、詩の最後で自分自身に反問しているのだ。
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