杉本徹「ガランスの扉」 | 詩はどこにあるか

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杉本徹「ガランスの扉」(「ヴェガ」3、2010年03月30日発行)

 杉本徹「ガランスの扉」にはわからないところがある。それにもかかわらず、夢中になった。杉本が書きたいことを私が読みとっているとはかぎらない。きっと、私は私の読みたいこと、あるいはこんなふうにことばを動かしてみたいと感じていること、そのことばの運動の先にあるものを、かってに読んでいるのだろう。「誤読」しているのだろう。
 まあ、これは杉本の詩に対してだけではなく、だれの作品に対しても私はそんなふうに「誤読」だけを繰り返しているのだと思うけれど。
 私がわからなかったのは「ガランスの扉」の「ガランス」である。私のもっている古い広辞苑には載っていない。私は「誤読」が専門だから(?)、辞書というのはめったにひかない。わからないことばは、きっと何度も出てきて、そのうちにわかるようになるだろうと思っているからである。ところが、この作品では1回しか出てこない。あ、見当がつかない。そこで初めて(実はこの文章を書きながら)、やっと辞書を引いたのである。ところが、出ていない。新しいことばなのかもしれない。
 「ガランス」が何を意味しているのか、保留しても、というか、そんなことを通り越して、私は、この詩に夢中になったのである。で、そのことを書く。

……或る教会と口にして、やがて壁づたいに日は暮れる。下車駅で踏んだ陽のまだら(鳥には鳥の縞)。数年と数分前に立ち寄ったガランスの扉は、どうしても見つからない。

 この書き出しに夢中になった。「……或る教会と口にして」という書き出しは、3度繰り返し読んでも、何のことかわからなかった。しかし、読み進んで「数年と数分前に立ち寄ったガランスの扉は、どうしても見つからない。」まで来たとき、すべてがわかった。わかった気持ちになった。「すべて」というのは、書き出しだけではなく、これからはじまることばの運動を先回りしてわかってしまったということである。
 これは正確な言い方ではなく、正確には、その後、私は私がわかったと思い込んだものにあわせて杉本のことばを読んだということになるのだろうけれど、ともかく夢中になった。

数年と数分前

 これは、学校教科書文法では「数年前と数分前」ということになると思う。そこから、少しずれている。そこが重要である。それは、あとからまた書くことにして……。
 この「数年(前)」と「数分前」という「間」はなにか。ふたつの時間のあいだには隔たりがあるのだから、その隔たりを「間」と呼んでもかまわないのだが、この「間」は「間」でありながら「間」ではない。--矛盾した言い方になるが、私には、こういう言い方しかできない。
 なぜ、「間」でありながら「間」ではないのか。それは、「数年(前)」と「数分前」が重なっているからである。そして、そこで重なっているのは「前」ではなく、実は「数年」と「数分」という「時」そのものである。そのふたつの「時」は重なり合っている。重なり合って、ひとつになっている。重なり合って、ひとつになっているもののあいだに「間」は存在しない。矛盾。
 「数年」と「数分」の「時間」のひろがりも、また重なり合うには「時間の幅」が違いすぎる。重なり合い、ひとつになってしまうというのは、論理的に破綻している。何かが破れ、矛盾している。
 「数年前」という一瞬、「数分前」という一瞬、その一瞬どおしなら重なり合うということも可能かもしれないが、杉本は「数年と数分前」と微妙にずらして(無意識のうちにずれて)、書いている。その「ずれ」が破綻を、あるいは矛盾を、いっそうねじれさせるのだが、それがおもしろい。
 「数年前」と「数分前」なら、時間を直線的に動いていくもの考えるのではなく、螺旋を描いて動くものと考えれば、その螺旋運動を垂直方向からみれば「瞬間」の一致点としてとらえることができる(重なっているととらえることができる)が、「数年」と「数年前」は重ねようがない。あえて重ねようとすれば、「数年」というひろがりのなかに「数分前」につながる一点を書き加えるということになる。

 あ、なんだか、書いていて面倒になるけれど。で、途中を省略してしまうけれど。

 この詩は、ようするに重なりようがないものを、意識の力(ことばの運動)で重ねようとしている。まるでダビンチの下絵にミケランジェロが色をつけているような、不思議な「ずれ」と「重なり」、重なることで見えてくる「間」と、ふたつのなにかの「自己主張」がひしめき合うのである。
 重なりようのないもの、「間」ではありえないものが、破綻し、矛盾し、動かなくなるのではなく、「ずれ」と「矛盾」のなかで、今までは存在しなかった動きそのものになるのである。
 そのことが、ぱっとわかった瞬間、書き出しの「……或る教会と口にして」の「意味」がわかった。
 私は最初、ある教会「を」口にして、日は暮れる、だと思って読んだ。その教会「を」口にして、とっかかりにして、日は暮れる、その教会のあるところから日は暮れる、と思って読み、読みながら、あれっ、何か違う字が視界を動いているなあ、と思い、読み返し、教会「を」ではなく、教会「と」であると気がつき、えっ、どういうこと?と訳がわからなくなったのである。
 けれど、いまなら、はっきりわかる。「口にして」は私が最初考えたように「入口にして」ではなく、「ことば」(あるいは声)にして、なのだ。
 そして、とても微妙なのは、その教会の名前を杉本は具体的にことばにしているのではない。「或る教会」という具合に、なにやら「匿名」にしている。わざと隠している。そこには最初から、重なるようで重ならない「ずれ」「間」があったのだ。その「間」が次々に拡大してゆく。増大してゆく。

 「口にして」はふつうは「声にして」の言い換えだろうけれど、私は先に「ことば」(あるいは声)と、ことばを前面に出して、杉本の詩を読んだ。それは、この詩が「声」、つまり発声器官の運動というよりは、発声なしに動く意識の運動だからである。

「火星」と呼ばれた火花が、だれか、物陰で遊ぶ子の手をはなれ、落ちる。草が冬空に靡くと稀なほど細い音がして、その隙から星座の空洞を測るのだ。アーケード、焼却炉、とすべてあざやかに絶えがちな家の光で縁取られる。

 「稀」「細い」「隙」「絶え・がち」。それは、重なり合いながら「ずれ」てしまう「間」のように、微妙で繊細である。そして、その「繊細」は強い。
 繊細なものは、「細い」「絶える」ということばに直結するように、「流通言語」では、とても「弱い」。弱いものの象徴として動く。
 けれど、杉本のことばでは、その繊細が、強靱に「間」を描き、「間」をこじ開け、自己主張する。「間」をつくるふたつのものに触れながら、ことば自身として存在するのだ。

生垣をトレースして、おまえは一気に駆け抜けよ、見えない廃屋の涯てまで。錆びた鉄屑の伯母まで。

 「見えない廃屋の涯て」「錆びた伯母」--こういうものは、存在しない。存在しないけれど、ことばは、存在させることができる。そして、存在しないものを存在させることで、ことば自身が存在する。
 「間」のように。
 あるいは「魔」のように。

刻々西陽に染まるアスファルトに落ちた、親しい樹の影の濃淡を見きわめ、その無音の波に、波に消える世界の、巣に、立ちくらむ一刻から。

 「無音の波」。「音の波」はあっても「無音」の波はないだろう。「無」なのだから。けれども、ことばは「無」さえも存在させ、同時に、ことば自身が存在してしまう。
 この2行には、そうしたことのほかに、もうひとつおもしろいことが書かれている。
 「樹の影の濃淡」。これは視覚。「無音」これは聴覚。繊細に動くことば、繊細であることの強靱さが、感覚を超越する。視覚と聴覚を融合させ、その垣根を超越してしまう。繊細には、繊細なことばには、そういう力もあるのだ。

 と、ここまで書いて、私は、また冒頭に行にもどる。
 「……或る教会と口にして」。杉本は「声」とは書かずに「口」と書いた。そこに、すでに、感覚の融合、感覚の超越のようなものがひそんでいるのだ。
 「声」でも「ことば」でもなく、「口」。その、「肉体」を強調する表現。「肉体」のなかで動いている未分化のもの、その未分化に触れるものが、無意識のうちに、そこにあらわれているように、私は感じる。



 「ガランスの扉」って、そういう無意識、肉体の内部の感覚の融合・超越を表現する最先端哲学の用語?
 「違う」と私の直感は言っているけれど、私は本を読まないのでよくわからない。
 次は、広辞苑に載っていないようなことばで困らせないでね、杉本さん。と、最後にお願いを書き添えておくことにします。もちろん、このお願いは「逆説」でもあるから、気にしないでね。わからないことばは、自分勝手に考えることができるから、私はけっこう気に入っている。
 変だね。


ステーション・エデン
杉本 徹
思潮社

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