誰も書かなかった西脇順三郎(123 ) | 詩はどこにあるか

詩はどこにあるか

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 西脇のことばは、どこで区切っていいかわからない。句読点がわからないときがある。「蘭」という作品。

矢車草をくわえた男が立つていた
永遠は時間の一点に
集まつてその一点に消える
永遠という女は思わず
身体を弓のようにまげる
永遠は悲しみとよろこびの間
をはてしなく行く
青みのかかつた茄子と
赤い唐辛のマネの絵
のついてピカソ焼きの
コップでコーヒーを飲んだ

 「永遠という女は思わず」は一般的(?)には「永遠という女は/思わず身体を弓のようにまげる」と書くところを、わざと行かえの位置をずらしたものなのか、あるいは、私は(あるいは男は)「永遠という女」のこと「は」「思わず」、自分の「身体を弓のようにまげる」のか。
 たぶん、前者なのだが、私は毎回毎回、後者のように読んでしまう。
 「永遠は時間の一点に/集まつてその一点に消える」という対になった2行が思念的というか、思考なので、それについて「思う」(肯定)一方、女のことは「思わず」(否定)と対にして読んでしまうのである。
 そして、その瞬間から、ことば(私のなかのことば)がぎくしゃくする。
 何か変なリズムになる。
 この変なリズムが、「をはてしなく」「のついた」という、「助詞」が冒頭に来る行のリズムで叩かれる。そして、叩かれて、永遠という女(のこと)は思わず、と読んでいた部分が、永遠という女は/思わず身体を弓のようにまげる、というふうにととのえられていく。
 これは不思議な体験である。
 ことばは、最初から「意味」(論理)をもって動いているのではなく、動いていく過程で、互いにことばを鍛え直しているという感じがする。そして、その「鍛え直し」のようなものこそ、詩だと感じるのだ。
 ある特別な思考(感覚)を表現するのではなく、ことばが動いて、ことば自身を鍛えることで、いままでとは違ったところまで動いていく--そういうことが詩なのだと感じるのだ。

太陽をよけるために
黄色い蘭を買つて
それで二人は口をかくして
永遠の微笑を見えなくした

 変だねえ。「太陽をよけるため」といいながら、口を隠すことが太陽をよけることになる? 何かが違う。何かが「流通言語」の「意味」とは違う。それがどう違うのか、つきつめるのはむずかしい。そして、そんなことをつきつめるよりも、蘭で口を隠し「永遠の微笑を見えなくした」ということばに、逆に、「永遠の微笑」、そしてその「口元」を見てしまう。感じてしまう。
 隠すことが見せること--というのは矛盾だけれど、そういう矛盾のなかで鍛えられ、育ってくるものを感じてしまう。
 そこに、やはり詩を感じるのだ。




西脇順三郎コレクション〈第4巻〉評論集1―超現実主義詩論 シュルレアリスム文学論 輪のある世界 純粋な鴬
西脇 順三郎
慶應義塾大学出版会

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