高橋次夫「少し羞じて」は灯を消して、ろうそくの炎を見つめる。
暫くは
炎も わたしも 動けないでいる
時間が燃えているせいか 瞬きもできない
すると炎の尖(さき)が かすかに
身じろいだかに見えた
充分に溶けきって 炎も
そのこころを解(ほど)いたのだろうか わたしは
わたしの頬の強ばりを緩める
炎は その表情をすぐに静寂に戻して見詰めてくる
そしてまた ふとその尖を身じろがせるのだ
わたしに語りかけている
目を瞠ってわたしは 炎に応えようとするのだが
わたしのなかに ことばが生まれてこない
「書きたい」という気持ちはとてもよくわかる。書こうとしていることも、とてもよくわかる。
「わたしのなかに ことばが生まれてこない」という1行はとても美しい。
この1行ゆえに、私は、この詩の感想を書きたいと思った。思ったのだけれど、どう書いていいか、とても困ってしまった。
この1行をのぞくと、私は、この詩が嫌いなのだ。ぞっとする部分がある。「暫くは」とか「かすかに」とか、ことばが安直である。「流通言語」が、そのまま、生のことばででてきている。高橋の「肉体」で濾過されていない。
詩を「流通する・意味」と定義していいなら、それでもいいけれど、そうすると「わたしのなかに ことばが生まれてこない」という1行のもっている美しさが「意味」におしつぶされてしまう。
私が「誤読」していて、ほんとうは「わたしのなかに ことばが生まれてこない」には、「意味」があるのかもしれない。
たぶん「意味」がある。そのまま「流通言語」なのだろう。それは、その連の「炎は その表情をすぐに静寂に戻して見詰めてくる」と同じように、描写に見えて、実は「意味」にすぎないのかもしれない。
だから、ことばは、困るのだ。
「流通言語」が突然、詩としてまぎれこんでくることがある。
「わたしのなかに ことばが生まれてこない」には、とても美しい「美」(重複表現だね、学校教科書作文なら、直しなさい、と言われそう……)があるのだが、そのことに高橋は気がついていない。「意味」しか意識していない。
次の連を読むと、そのことがよくわかる。
長いあいだ人工の光に漬かっていたためなのだろう
炎に繋がることばは抹殺されて
あの失語症の哀しみが甦る
それでも炎は わたしを宥めるように
ときおり その身じろぎを繰り返すのだった
「あの失語症の哀しみ」。「ことばが生まれてこない」は「失語症」の状態である。それは「哀しい」。「わたし」が「哀し」んでいるから、炎はわたしを「宥め」ようとする。
「意味」の連鎖が、ことばをしばりつけている。べったりとした「感情」が粘りついている。
あ、違うのに、と思ってしまう。
そういう「流通感情」を引き剥がして、無意味にしてしまってこそ、詩なのである。詩のことばは無意味でなければならないのだ。
わたしのなかに ことばが生まれてこない
この1行は、「無意味」が「わたし」をつつんだ--という具合に動いていけば、きっと詩になる。「無意味」の輝きに祝福されていることに気がついて、それまでの意味を捨て、無意味として生まれ変わる、というベクトルをもって運動すれば、きっとおもしろい。その「起点」になれる1行である。
けれど、高橋は、その1行から「流通言語」へもどってしまう。
部屋の周りには
淡い 柔らかな影を
微笑みのようにひろげている
わたしは今 なにを応えなくてもいい
ようやく 自分に囁いてみる
失語症の哀しみを炎はやさしく宥めてくれる。わたしは何も応えなくてもいい。炎のやさしさをただ受け入れればいい--少し羞じらい抱きながら。
うーん。「意味」だらけ。
でもねえ。
「わたしのなかに ことばが生まれてこない」といいながら、次々にことばが出ているでしょう? ほんとうは、そういうことろに詩の運動があるのだけれど、そのことに高橋は無自覚。だから、「なにを応えなくていい」と「自分に囁く」のだけけど、ほんとうは、逆でしょ?
「ことばが生まれてこない」。つまり「流通言語」が有効性を失った。そのときから、高橋がことばを動かしているように、ほんとうは、ことばは動きはじめる。そしてそのことばは「流通言語」のタガを失っているから、どこまでも暴走する。「意味」を蹴散らし、暴走し、燃え尽きる。
そこにしか、詩はないのではないだろうか。
*
こんなふうに詩になっていない作品を、わざわざ感想を書くという形で取り上げなくてもいいのかもしれない。たぶん、取り上げないというのがマナーなのだと思う。けれど、私は、きょうは体調が悪いのか、そういうマナー違反をして、だらーっとしていたい気分だ。
まあ、「日記」なんだから、こんな日があってもいいかな、と自分に言い聞かせてみる。