岩佐なを「わざ」 | 詩はどこにあるか

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岩佐なを「わざ」(「交野が原」68、2010年04月10日発行)

 困ったなあ、と思うときがある。詩を読んでいて、あ、困ったなあ、と。たとえば、岩佐なを「わざ」。困ったなあ。気持ち悪くない。だめだよ岩佐さん、もっと気持ち悪い詩を書いてくれないと。私は、岩佐の詩は気持ち悪い、なんでこんなに気持ちが悪いのに読んでしまうのか、ということを怒りながら書くのが大好きなのだ。岩佐の詩をいいなんていう奴がいるなんて、世の中間違っている、と書きたいのだ。でも、書けないじゃないか、こんな詩では……。

 あいかわらず、ずるくて--ことばの動きが狡賢くって、それが気持ち悪いといえば言えるのかもしれないけれど……。(あ、私が、気持ちが悪くないと感じるのは、一番に森鴎外、次が魯迅なんですが。--こう書けば、いくらか「気持ち悪い」を定義死したことになるかなあ。)

 あ、話がずれてしまった。書き出し。

「危なっかしい」の
「っかしい」のあたりをたくみにしのいで
真剣白刃の上を渡ってゆく

 「っかしい」って、どのあたり? 言えないね。岩佐自身、言おうとしていない。けれど、なんとなく「わかる」。それは「っかしい」だけではわからなく、「のあたり」があるから、わかってしまう。「っかしい」なんてものはほんとうはなくて、「危ない」の周辺の、その「あたり」が「危ない」ではなくて「っかしい」なのだ。そして、それは「しのいでゆく」というやり過ごしかたが最適の「場」である。それは「克服する」とか「解決する」とかではなく、身をかわして、それが身をこわしてしまわないようにこらえるという感じかなあ。こういう感じ、誰もが体験して「肉体」の記憶としてもっているものだと思う。それを、岩佐は明確なことばではなく、その「あたり」を徘徊することばで書き留めてゆく。そこに「肉体」が出てくる。
 そして、そのとき、あらわれてくる「肉体」が、以前は、とても気持ちが悪かった。ところが、最近は、なんだかあまり気持ちが悪くない。
 「しのいで」から「真剣白刃の上を渡ってゆく」という行の展開にみられるように、ことばが、岩佐自身の「肉体」だけではなく、「日本語」の「肉体」を踏まえるからかもしれない。「しのぐ」は「しのぎ」、刀の刃と刃を支える部分の境目のようなところ(そのあたり)をさしていると思うけれど、ね、ここで「あたり」がででくるでしょ? このあたりの(と、私は岩佐のまねをしてみる)、すりかえというか、ずらしというか、そこがそれこそ「たくみ」でしょ?
 岩佐の「肉体」だけが問題なら「気持ち悪い」ですむのだけれど、それが「日本語」の「肉体」と重なってしまうと、うーん、気持ち悪いと言えない。言ってもいいのかもしれないけれど、私は、なんだか抵抗を感じる。岩佐の「肉体」そのものを「気持ち悪い」ということは私にとって何の問題もないけれど、「日本語」の「肉体」が「気持ち悪い」と言ってしまうと、私には、書くためのことばがなくなってしまう。
 それでは、困る。

莚に坐って
黒猫に
あまりの心地よさで
白猫になっちゃう素手の美技を
ほどこしてやる
「にゃにゃにゃにゃむにい」
「そうだろう、そうだろう」

 この部分は、私には、まったく個人的な理由で「気持ちが悪い」。ここでは岩佐の「肉体」が問題なのではなく、「猫」が問題である。私はカタカナが苦手であるのと同じように、猫が苦手で、それだけで「気持ちが悪い」。猫と会話する、猫とことばが通じるとなれば、もう、だめ。
 なんてことは、詩自体とは、何の関係もなくて、その気持ち悪いはずのことがらが、

「にゃにゃにゃにゃむにい」
「そうだろう、そうだろう」

 こういう「日本語」になってしまうと、「気持ち悪い」のに「気持ち悪い」といえなくなる。あ、おもしろい、と私の意に反することばが出てきてしまう。
 これは困る。非常に困る。

おろ?振り向けば
猫猫駄犬野良捨犬土鳩
みんな並んで待っていな、順番、順番。
素手のわざ、指のわざだ。
(ゆっくり生きのびろ)
順番、順番、
快楽も極楽行きも。
ほうら、手技。
けっして手抜きではないのだよ。

 「順番、順番。」というような「口語」を出しておいて、最後は「手技」に「手抜き」。あ、字が似ている。突然の、「文語」。書きことば。そして「書く」ということで浮き上がってくる「日本語」の「肉体」。
 まいるね。
 困ったね。ほんとうに、困った。

 岩佐の詩なんか大嫌い、といいたいのに、また今回も言えない。欲求不満がたまって、いらいらしてしまうよ。



しましまの
岩佐 なを
思潮社

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