八木幹夫「籐椅子に座る人」、大橋政人「老犬たちの後ろから」 | 詩はどこにあるか

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八木幹夫「籐椅子に座る人」、大橋政人「老犬たちの後ろから」(「交野が原」68、2010年04月10日発行)

 八木幹夫「籐椅子に座る人」は静かな響きに満ちている。

いつだったのだろう
どこだったのだろう
ふかくねむって
めがさめた
うみのおとがした
むすめたちは
ねむっている
つきのひかりがカーテンのすきまから
さしこんで
まどぎわの籐椅子に
あのひとがすわっている
こどもからはなれ
おんなからはなれ
ひとりのおんなからはなれ
そこにいる
(ああ いまこえをかけてはいけない)
よるのうみ
つきのひかり

 ひらがなの効果かもしれない。ことばが「意味」にならずに、音としてただよう。それこそ静かな海の音のように聞こえてくる。近いのか。遠いのか。はっきりわからないのは、その音につつまれてしまうからだ。
 そういう「意味」になる前の、純粋な響きのようにして、「あのひと」が座っている。「こどもからはなれ」つまり母であることから離れ、「おっとからはなれ」つまり妻であることから離れ、 だが、

ひとりのおんなからはなれ

 これはなんだろう。「おんな」から離れたとき、「あのひと」は何になるのだろう。「母」とか「妻」とかという言い換えがきかない。「意味」が消える。「意味」を見失う。「意味」を見失うのだけれど、その見失った「意味」のなかで、ふいにことばにならないものと出会う。ことばになる前のものと出会う。
 だからこそ、「こえをかけてはいけない」。
 「意味」はひらがなの「音」に帰っただけではなく、その「音」の向こうにまで帰っていってしまった。そして、そこで誘っている。
 何を?

よるのうみ
つきのひかり

 ただ、そこにそうしてあるものへと誘っている。ことばを捨て、ただ、見つめる。そして、放心して、世界と一体になる。「あのひと」といっしょに、八木自身も、「よるのうみ」になり、「つきのひかり」になる。



 大橋政人「老犬たちの後ろから」は気持ちがいい。

この辺の犬たちは
みな、かなりの老犬ばかりだ

佐竹さんちのメリーは
目がまっ城に濁ってきたし
稲田さんちのララちゃんは
突然、横倒しに倒れるし
脳梗塞からカムバックした
石井さんちのゴンちゃんは
浮くが如くに
ゆらゆらゆらゆら歩いていく

夕方
そろって散歩に出るが
みんな恐る恐る歩いているので
人間だけでもう一回
歩き直す人もいる

 犬が夕方散歩する。老犬なのでゆっくりしか歩けない。それに辛抱強く、人間がつきあっている。その「ゆっくり」が愛というものだが、それを味わいながら犬もまた歩いている。体の調子が悪いからゆったりしているだけではないのだ。そんなふうに「ゆっくり」と歩くこと自体がうれしいのだ。
 そのあとが、とてもおかしくて、とても楽しい。気持ちのいい「味」がある。
 そんなふうに「ゆっくり」歩いていたのでは、人間の「散歩」(運動)にはならない。だから、ひとりで、つまり犬は家においておいて、もう一度歩き直す。
 これって、人間の「わがまま」?
 わからないなあ。けれど、ねえ。それが「わがまま」かなにかよくわからないけれど、その「欲望」は、犬といっしょに歩いたために生まれてきたものだ。歩かなければなんとも感じないのかもしれないが、なまじ、ゆっくり歩いているために、歩くことにめざめてしまうのだ。「歩く」「歩ける」という喜びがある、ということに気づいてしまって、歩いているのだ。
 そう思うと、それはあるいは「老犬」が教えてくれた何か大切なもののようにも思えてくるのだ。
 きっと、ひとりで歩きながら、そのひとは「あ、うちのメリーも、ほんとうはこんなふうにして歩きたいんだよなあ」なんて、思っている。「よし、メリーの分まで歩くぞ」なんて、思いながら歩く。
 「人間だけで」歩き直しているようにみえて、実際は、犬と歩き直している。家に帰って、「ねえ、メリー、稲田さんちの角を曲がって山の方へ歩いていくとスミレが咲いていたよ。去年は、見たよね。あしたはそこまで行ってみようか」なんて、語りかけるのかもしれない。
 「人間だけ」とはいいながら、いつもいつも、いっしょなのだ。




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