鈴木正枝『キャベツのくに』(2) | 詩はどこにあるか

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鈴木正枝『キャベツのくに』(2)(ふらんす堂、2010年03月08日発行)

 鈴木正枝の詩には「同時に/私も」が隠れている。ことばにならない形でひそんでいる。そして、それは、見えなければ見えないほど、不思議な輝きを発揮する。
 「風の日」。

チッとベルがなって
玄関のドアを開けると
誰もいない
サッと入られてしまった
気配がある

ひとり?
声が言う
先回りして
もう椅子に座っているのだ
背もたれに脱ぎ捨てられたTシャツが
少しずつふくらんでくる

私は場所をなくしてしまった
ふりかえると
長く伸びた指先が
静かにページをくっている

本は読まれているのね
その時まで私が
そうしていたように
その同じ場所で
読み手が変わったことに
気づかない
そのままで

 サッと入ってきた風。そのとき、「同時に/私も」風になる。それだけではない。その風にページがくられる本。その本を見つめるとき、「同時に/私も」本になる。「当時に」風「も」本「も」「私」なのである。「私」が複数になり、相互に行き来する。それは互いに寄り添い、互いを護り、互いを育てる--というのではなく、互いに寄り添い、互いに、同時に(瞬時に)自分が自分であることを「交換」しつづける。

 それにしても、「本は読まれているのね」からの7行はなんと美しいのだろう。本は読まれていることを意識せずに、誰が読んでいるかを気にせずに、そのページのなかで、ことばを動かしている。
 この7行を、鈴木は「風」が、私と同じように本を読む、という形で書いているけれど、その美しい夢そのもののなかでは、「風が」ではなく、「私も」風と同じように読み、そのとき本は「私を(も)」、風がページをくっているかのように、何も気にせずにことばを動かしているのだ。
 風「も」本「も」私--私は、私であり、風で(も)あり、本で(も)あるのだから、この本の姿は鈴木の「夢」そのもので(も)あるのだ。
 鈴木のことばは、私が(谷内が)読むときも、風が読むときも、そしてまた別の誰かが読むときも、同じようにことばでありつづける。誰か特別な人が読むからといって、ことば自身が運動をかえるわけではない。かわらない。
 そして、かわらないからこそ、そこで何かがかわる。
 読んだ人と、そのことばのありかたが、少しかわる。(大きくかわる、かもしれない。)

 「試み」という詩も、とても好きだ。

今夜こそ
机の前に正座して
肩をゆすり
さびしさを取り出して
机の上に置いてみよう

 この「さびしさ」は「私」そのものである。だから、この行のあとには、ほんとうは、

同時に/私も
取り出して
机の上に置いてみよう

を書き加えることができる。もちろん、そんなことをすれば、ことばの運動が重くなる。動きにくくなる。だから鈴木はそんなことばを書かないが、書かないけれど、鈴木の肉体の中に、それが隠れている。

今夜こそ
机の前に正座して
肩をゆすり
さびしさを取り出して
机の上に置いてみよう
少し痛むかもしれないが
月明かりのなかで
両手で触れて
確かめてみよう
いつも心臓の近くに
無言で端座している
さびしさに
初めて気づいたふりをし
もの珍しそうなふりをし
半分苦笑しながら
掌にのせて
重さなど量ってみよう

 「さびしさ」に触れるということは、「肉体」のなかの、まだことばにならない私に「も」触れることである。そして、そういう私に触れることは、さびしさを入れていた「私」という器に「も」触れることである。ここでも相互交流がある。「も」は、相互交流を必然的に引き起こすのである。
 詩はつづく。

いっそのこと
刃物で切り刻んで
深夜の下水に
流してしまおう
夜明け前
その分だけ軽くなり
その分だけさびしくなる

 「さびしさ」を捨てたら、その分だけ「さびしく」なる。これは、結局、さびしさが減ったのか? 増えたのか? わからない。「わからない」ことが、たぶん大切なのだ。
 「も」ということばは、違うものをいっしょに存在させることばである。
 風「も」本「も」私「も」、あるいはチューリップの球根「も」私「も」。違う存在だから「も」ということばで並べることができる。そして、違うということが明確になるから、それが融合し、ひとつになるとき、それは美しくなる。ひとつではみえなかった「深み」が出てくる。

 たぶん、同じことばの繰り返しになるのだが……。

 「同時に/私も」という形での運動、そのことばの運動を最終的に引き受けるのは「なる」である。「その分だけ軽くなり/その分だけさびしくなる」という最後の2行で繰り返されている「なる」。「同時に/私も/……になる」。「私も/……になる」から、そのとき「私」と「……」は同じものである。融合し、区別のつかないものである。同じものであるから、より強く、支えあい、護りあい、まっすぐに育つ。