駱英『小さなウサギ』(2) | 詩はどこにあるか

詩はどこにあるか

詩の感想・批評や映画の感想、美術の感想、政治問題などを思いつくままに書いています。

駱英『小さなウサギ』(松浦恒雄訳)(2)(思潮社、2010年03月01日発行)

 「或いは逆に、」は「二本の樹」という作品では、別のことばで書かれている。

苦しみは、単なる存在の自己証明なのではない。苦しみを感じるとき、同時に存在の快感をも享受しているのである。

 「同時に」が「或いは逆に、」である。少しことばを補うとそのことが明確にわかるはずだ。

苦しみは、単なる存在の自己証明なのではない。苦しみを感じるとき、(ひとは)「或いは逆に」存在の快感をも享受しているのである。

 「苦しみ」の対極に「快感」がある。それは「同時に」存在する。それは「苦しみ」は単に「苦しみ」であるのではなく、「或いは逆に、」「快感」と呼ぶべきものなのである。それは切り離せない。「逆」といいながら、かならず「同時」である。反対のものであるからこそ、対極にあるものだからこそ、矛盾したものだからこそ、それは「同時に」という限定が必要なのだ。もしそれが「同時に」でなければ、そのふたつは何の問題もない。「同時に」であるからこそ、そこにはことばで分け入っていかなければならない「本質」がある。ことばでしかたどりつけない「本質」がある。つまり、そこには「思想」がある。 

 「或いは逆に、」がそうであったように、「同時に」は書かれてはいないが、駱英のこの作品には随所に存在している。いくつもの個所で「同時に」を補うことができる。補った方がよりわかりやすくなる。

 喜びを交換するとき、「同時に」痛みも交換している。


 歓喜する者が樹で、「同時に」謀殺する者も樹である。新たな生を得るのが樹で、「同時に」枯れるのも樹である。受けとめる者が樹で、「同時に」抑圧する者も樹である。高貴なのが樹で、「同時に」下賤なのも樹である。しなやかなのが樹で、「同時に」折れやすいのも樹である、などなど。

 そして、この「同時に」には、「或いは逆に、」に置き換えてしまうと、少し「意味」(流通言語としての意味)がおかしくなるものがある。

 喜びを交換するとき、「同時に」痛みも交換している。これは、喜びを交換するとき、「或いは逆に、」痛みも交換している、と書き換えても問題はない。「喜び」の対極のことばは「悲しみ」かもしれないが、「悲しみ」には「痛み」がともなうから、まあ、「逆」ということばで向き合わせても、それほど違和感はない。
 けれど、「歓喜」と「謀殺」はどうだろう。「受けとめる」と「抑圧する」はどうだろう。「歓喜」の対極は「悲嘆」だろうか、「苦悩」だろうか。「受けとめる」の対極は「剥奪する」だろうか。
 それらは、「或いは逆に、」ということばで向き合わせるとき、しっくりと「文脈」におさまるかどうかわからない。
 「世界」には、そういうものが存在するのだ。
 なんとなく「或いは逆に、」といってもいいけれど、そういいきってしまうと、微妙に何かが違う。けれど、単なる並列ではなく、違う形で存在するものが、どちらかというと片方を支えるではなく、否定するような(つまり矛盾するような)形で存在するものが。そういうものを書き留める、ことばにするとき、駱英は「同時に」ということば、表現をつかうのだ。
 そして、この「同時に」ということばとともに、対極にあるものが(対極に近いものが)存在するとき、そこにひとつの「形」(存在形式)が生まれる。
 それが「絡む」である。

 二本の樹の絡みあった根っこは、深く愛しあう恋人同士、或いは同性愛の恋人同士の、片時も止むことのない性行為のようではないか。

 書き出しにあらわれる「絡みあった根っこ」、その「絡む」という同士。「二本」の樹。ふたつが対立するのではなく、並列する。しかし、それは助け合っているのか、殺し合っているのか、簡単には定義はできない。性行為ということばが出てくるが、性行為の絶頂は「死ぬ」である。それは「殺す」のか、「或いは逆に、」「生かす」のか(新しい命を与えるのか)、そしてその「殺す」と「生かす」は別の時間ではなく「同時に」存在するとき、限りなく燃え上がるものだが、その「殺す」と「生かす」は、単に「支えあう」のではなく「絡みあう」のである。

 お互いに便りあう根っこをさらに幾組みも絡めあわせよう。そうすれば、地上と地下に二つの森ができあがる。

 ここにも、実は「同時に」が隠れている。地上と地下に「同時に」二つの森ができあがる。そして、それは「或いは逆に、」でもある。地上に森ができあがる、「或いは逆に、」地下に森ができあがる。つまり、地上と地下に「同時に」二つの森ができあがる。繰り返しになってしまうが、駱英のことばは、そんなふうに運動する。
 地上には枝葉の森、地下には根っこの森。
 駱英のことばは、この地上・地下という表現が呼びさますような、対極を常に行き来する。いや、対極を一点に引き寄せ、結合させ、結合によって爆発させ、解放する。そして、それは解放であっても、かならず対極のものが「絡んで」いる。「絡んで」いるからこそ、それは動き回るのだ。

 「或いは逆に、」そして「同時に」。この矛盾したことばは、常に動き回る。どうしても、そこにはスピードというものがあふれてくる。強靱というものがあふれてくる。速くて、強靱--そして、それは切り離せない。それが駱英のことばだ。





都市流浪集
駱 英
思潮社

このアイテムの詳細を見る