だれの詩でも、わからない部分がある。そして、そのわからない部分が一番おもしろい。いろいろなことを考えることができる。わからないので「意味」に縛られない。不思議な解放感がある。
たとえば、北原千代「薬草園」。
-よく眠れますから-
薬草園の主人は言った
枯れた箒草と微かな息にもほどける綿毛
星形の花びらのひとつかみ
棒シナモンとワイン・・・
-いえ、あなたは調合など知らなくてよいのです-
飲みものは熱くひりつき喉元からふくらんでいった
ほんのすこし爪先で蹴りあげるとのぼっていった
わたしはのほっていった
1連目は、「眠れない」と訴えた「わたし」(北原)に対し、薬草園の主人が特別な飲み物をつくってくれたということだろう。「かすかな息にもほどける綿毛」という魅力的なものも、ほどかれて、その飲み物には入っている。「星形のはなびら」のような、夢にでてきそうな美しいものも溶け込んでいる。
それを飲んだときの、印象。「肉体」の記録としての2連目。
熱いものが喉元でふくらむ。喉の粘膜から血管に直接染み込んでいくような描写のあとの、
ほんのすこし爪先で蹴りあげるとのぼっていった
この1行が、とても美しい。
「何が」のぼっていったのか。「どこへ」のぼっていったのか。2連目だけではわからない。わからないから、わかっていることをたよりにして、私の肉体は反応してしまう。
温かい飲み物を飲んで、爪先で蹴りあげる。「なにを?」--「わたしを」。そのとき、「わたし」がのぼっていくことになるのだけれど、私には「わたし」より先に、「肉体」のなかにとけこんだ特別な飲み物そのものがのぼっていくように見える。感じられる。「どこへ?」「どこを」。「肉体」のなかを、たとえていえば「血管」のなかを。飲み込んだ温かい液体--それはまず「肉体」のすみずみにまで血管で運ばれる。「肉体」のすべてがあたたかくなり、ふくらむ。その「肉体」の一番はしっこの「爪先」。それを動かす。すると、その動きを逆流するように、血液の中のあたたかいもの、「肉体」のなかのあたかいものが、のぼってくる。「爪先」から「肉体」の上へ、上へとのぼってくる。そして、疲れた「頭」をあたたかくつつんでくれる。
そうすると、そこに枯れた箒草、かすかな息にほどける綿毛、星形のはなびらというような、やさしいものが、「頭」のなかにも広がる。
「肉体」のなかに広がったものが、「肉体」の印象をかかえたまま、「頭」を「肉体」の一部につつみこんでしまう。
いいなあ、眠りに入っていくというのはこういう至福の時間だよなあ、と思う。
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