豊原清明は不思議である。ことばを書くとき、私はどうしても、ことばの「過去」を気にしてしまう。そのことばがどこからやってきたか、それを明確にしないと、ことばを動かせない。たとえば、いま、こうやって書いている文章。それは豊原清明のシナリオを読んだことによって動きはじめている--ということを、私は最初に書かずにはなにも書けない。
ところが、豊原はそんなまだるっこしいことをしない。いきなり「現在」から書きはじめる。「現在」からことばを動かしはじめる。しかし、そのことばは「過去」を持っている。ことばに「肉体」がある。
○ タイトル「俳句!」
○ 「脚本・監督 豊原 清明」
○ 僕の左手の平
川柳「六十のさえない奴がなぜ恋に」
僕「僕は、俳句をしたい!」
○ 僕の部屋
僕の声「二十年間、閉じこもっていた。」
○ 父
父の声「吟行にいこう。」
○は、映画のそれぞれのシーンである。最初にタイトルや、監督の名前がでる。そのシーンさえもが、何かしら「過去」を持っている。いま、ほとんどの映画は、突然はじまり、そのあとでタイトルや監督の名前が出ることが多いが、豊原は古いオーソドックスな手法でタイトルや監督の名前を出す。その静かなトーン。それ自体が、すでに豊原の記憶を語っているような感じがする。いま、あちこちで上映されている映画とは違う、もっと古くて温かい映画を見てきた記憶--そういうものが、静に反映されている。
そして、そこへ、唐突に、父が出てくる。出てきたと思ったら、それはなんの脈絡もなく「吟行へ行こう。」というのだが、その「吟行」に「過去」がある。これが「銀行」だったら、きっと「過去」は見えて来ないのだが、「吟行」ゆえに、「僕」の「過去」がみえてくる。あ、俳句の吟行--そうなのか、豊原は、部屋のなかにとじこもってことばをさがしているのではなく、実際に、外に触れながらことばを動かして生きているのだ、そういうふうにことばを動かしているということを、父も知っているのだ、という「過去」が見えてくる。
この「過去」の見せかたが、なんとも、すごい。自然である。正直である。ぐいと引き込まれてしまう。
○ 明石公園(昼過ぎ)
植物のきらめき。メガネをかけた、僕の顔。父に撮って貰う。
僕の呆けた顔。
○ 公園景色
公園の自然を撮りながら、
僕の声「何とかや…。」
父に撮って貰う。
ベンチに座って、句を、ノートに書いている、僕。
花や草木を見ている、デブの僕。
公園の、景色を撮る。
寒い、景色。ジャンパー、コート。
○ 室内
トチの木の写真。
父「わしも、書いている。」
僕「何時からや。」
この変化。飛躍。飛躍のなかにある「過去」。
ふつう、ことばが飛躍すると、その先に「未来」があらわれる。「未来」という方向性が生まれる。
けれど、豊原のことばは飛躍すると、突然「過去」が巨大な固まりとなって見えてくる。あ、ことばは、こんな「過去」をもっているのか、とびっくりする。
僕(豊原)は俳句を書いている。それに対して父が「わしも、書いている。」という。それは「俳句を書いている」という意味である。違うかもしれないが、私は、そう感じてしまう。
そして、そのときの反応。
「何時からや。」
あ、まるで、ある日の一日の一瞬を切り取ってきたことばそのままである。「僕」は、いつから父が俳句を書いているか問うているのではない。そういうときなら、「何時から俳句を書いている?」と成文化されるだろう。そういう成文化をするひまがないくらいのスピードで「何時からや。」ということばが発せられる。それは、そのことばに「怒り」のようなものが、つまり激しい感情があるからだ。
そして、それは単に、そのことばに激しい感情があるというだけではなく、豊原がそんなふうにして、唐突に激しい感情を父に繰り返しぶつけてきたという「過去」をも浮かびあがらせる。
繰り返された「日常」--そのなかで組み重なってきた、ことばのスピード。
そういうものを豊原は瞬時に再現し、定着させる。
その「怒り」のあとの、悲しみ。こころの寒さ。それは一転して、屋外へほうりだされる。
○ 寒い池
僕の声「寒い! 寒すぎる! たまらん! 家、帰りたい!」
○ 買って貰ったペットボトル
握りしめる。
○ 自分の手の平
左手「六十のさえない奴がなぜ恋に」
右手に、今日の句を書く。
両手を撮る。
-終わり-
この、リズムの、あまりに直接的な、直接的すぎるリズム。カメラなしで、こんなに映画的な映画を再現するというのは、ほんとうに天才である。
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