嵯峨恵子『定本 おかえり』は病で倒れた母を、父と嵯峨のふたりが介護する日々をつづっている。「お別れ会」が一番こころに残った。
お母ちゃんの葬式の件やけど
父がさりげなく切り出す
まだ頭がしっかりしてる頃
あの人献体するって
お医者さんの前ではっきりゆうたんだよ
だから 葬式じゃないから
まあ お別れ会だな
話題の主はといえば
今日も口を開けて寝ている
涼しくなると寝やすくなるのか
食事と排泄以外やる事もないからか
一日の大半を寝ることに費やしている
あんまり寝てばかりいると頭が働かなくなるよ
とほっぺたをぺたぺた叩いても
しぶい顔をして目も開けてくれない
こうして毎日
死ぬ練習をし
着々と
本人は本番に備えているのかもしれない
そうして
母のいなくなった日
私たちはいなくなった母を囲むのだろう
お茶や着付け、お花のお弟子さんたち
近所のおばさん
親戚の人たち
母を知っていた人たちばかりが
わが家に集まるのだ
お別れ会
それいいね
それでいこう
私もさりげなく応える
母が「死ぬ練習」をしているのだとしたら、嵯峨と父は「死を迎える練習」をしているのだろう。それはつらい練習だけれど、練習ができるまでになった、その一種の「やすらぎ」のようなものがこの詩をつらぬいている。
「やすらぎ」と言ってしまってはいけないのかもしれないのだけれど。ほんとうは、とても苦しいことなのかもしれないのだけれど。
その苦しみは2行目と最終行の「さりげなく」に書かれている。
嵯峨と父は「死を迎える」準備をしている--と書いたけれど、その前に、死を迎える前の準備の準備をしている。「お母ちゃんの葬式の件やけど」と父が口にするまでに、父は何度、そのことばを練習しただろう。実際に声に出したかどうかはわからないが、何度も何度も、頭のなかで繰り返したに違いない。どういう反応を娘(嵯峨)はしめすだろうか。こういう反応をしたときはこんなふうに応え、別の反応をしたときはあんなふうに……とあれこれ考えたに違いない。そして、実際に、それをことばにするとき、また不安が襲ってくる。どういう反応があるだろう。また、ふいに悲しみも襲ってくる。生きているのに、こんなことを言わなければならないなんて……。
あふれる感情をおさえ、なんでもないことのように、「さりげなく」言う。もちろん、それは「さりげなく」どころではない。そして、それが「さりげなく」どころではないということは、長い間いっしょに生きてきた娘なら、すぐにわかる。父が無理をしていることがすぐにわかる。
わかるから、その父のことを思い、父が「さりげなく」切り出したと書くのだ。
それに応える娘(嵯峨)も「さりげなく」を装う。悲しみをおさえ、むしろ、それが「よろこび」にかえられるように懸命にこころを動かす。
お別れ会
それいいね
「いいね」。それが「いい」はずはない。「いい」のは母が死なずに生きていることである。わかっているけれど、その最良の「いい」をあきらめ、その次の「いい」を受け入れるために、嵯峨はこころを動かす。
その練習を何度も何度も、こころのなかで繰り返す。その様子を、こころに描いてみる。そうして、自分自身に「それいいね」と納得させる。
それから、その納得をするために、どれだけ涙をこらえたか、それを悟られないように、「さりげなく」応える。
ふたりの「さりげなく」にはむりがある。ふたりの「さりげなく」は「わざと」よそおわれた「さりげなく」である。
だから、そこに詩がある。思想がある。人間のいのちをととのえる力がある。
![]() | 私の男―Mon homme 嵯峨 恵子 思潮社 このアイテムの詳細を見る |
