佐々木洋一「少女」は、少女のことばを聞いているひとのことを書いている。
「ホットドックがたべたいな」
少女が言う
そのまま信じていいものか
風の勢いで唇を切ったと告げる少女の頬はなぜか腫れている
腫らしたままでいいものか
そっと冷やして上げる
少女は風の勢いについて話し出す
「怒り風 隙ま風 猛り風 狂い風 破れ風 扱(しご)く風 逆さ風
叩く風 犯す風」
たくさんの風にさらされている
「ホットドックがたべたいな」
少女がつぶやく
そのままさりげなく信じていいものか
「少女」と作者がどういう関係になるか、はっきりとはわからない。わからないけれど、(わからないから?)私は勝手に想像してしまう。
少女の頬には殴られた跡がある。腫れている。けれど少女はその「腫れ」を風の勢いで唇を切ったせい、という。そのくれ、その風には「怒り」「狂い」「叩く」「犯す」というような、ぶっそうなものがまじっている。
人間には、正直には語れないことがある。語るということは、自分が体験したことをもういちどことばで体験しなおすということである。そこには、どうしたって繰り返したくないことがある。だから、「正直」にはなれない。その正直になれないということが、人間の正直の悲しさなのである。
こういうとき、人は、その「語り」に対して、どう向き合うことができるだろうか。
むずかしいね。
佐々木は、ことばをはさまず、ただ黙って聞いている。黙って聞いているけれど、その黙っていることのなかには、佐々木のことばがつまっている。
3行目の「そのまま信じていいものか」と、最終行「そのままさりげなく信じていいものか」のあいだの「さりげなく」のなかで、佐々木は苦悩している。どんな反響をかえすにしろ、それは「さりげなく」でないと、またひとつの「風」になってしまう。
語れないことばの前で、佐々木だけが「ことば」に復讐されている。その復讐を受け止める佐々木の強さが静に滲む詩である。
*
柿沼徹「反響」は用水路にかかる鉄橋を思い出す詩である。
電車が去ったあとは
その何倍もの静寂が立ちあがるのだ
復讐でもするかのように
(静寂のなかで
(どんな言葉を言ったのか
記憶にすぎないものは
耳鳴りにちかい
この連の7行が私は好きだ。まるで、恋が過ぎ去って、いま、孤独、孤独という沈黙に復讐されている--そう書いているように読める。(そんなふうに、読みたい。)
対話する相手は、恋人ではなく、「ぼく(柿沼)」自身である。「ぼく」が「ぼく」に語ることばは、それがどんなものであれ、恋人に語ることばと対比するとき、それは「耳鳴り」であるだろう。「耳鳴り」は「静寂」の「何倍もの」沈黙なのだ。
「復讐」ということばが、とても美しい。美して、痛烈である。
けれども、私は、この作品の他の部分は嫌いである。
(冒頭からやりなおそう
という行が、先に引用した部分のあとに、独立した1行として存在する。その孤立感も嫌いではないが、それにいたるまでのことばが、なんとも気持ちが悪い。
用水路のなかに
鯉の背中が動くのが見えた
どちらかが最初に見つけ
ながいあいだ
ふたりで眺めた
ゆるりと動く水の音が
耳に届くくらい静だった
(それが記憶であることは
(付言するまでもない
ときおり電車が通過した
ガード下に立つと
轟音に包まれることができた
電車が近づくたびに
ふたりでガード下に駆け込み
轟音の響きにまみれた
(それも記憶であることは
(付言するまでもない
「(付言するまでもない」というもったりしたことばに、ぞっとしてしまう。自分の記憶のことじゃないか、もったいぶるなよ、といいたくなるのである。
けれども。
あ、これが詩のむずかしいところなんだろうなあ。文学の複雑なところなんだろうなあ。この「もったりした」、言わずもがなの部分を、あえて言ってしまう。そして、その言ってしまったことば、(ほんとうは書いてしまったことば、と書くべきか……)、そのことばのなかに淫していってしまう。そういうことばのなかに、書くひとをひきずりこんでしまうというのが、文学なんだろうなあ。
柿沼のこの詩を読んで、満足するひとの数、あるいは読者の満足の総量より、きっとこういう詩を書くことに満足している柿沼の満足の量方がはるかに大きい。
(冒頭からやりなおそう
用水路に沿った歩道を歩いていた…
柿沼は、そう書いて、1連目へ戻るのである。
用水路に沿った歩道を歩いていると
ぼくたちの先に
鉄道の高架が
低く横切っていた
(その情景を
(今日は憶いだしたのだが
「記憶」と「現実」の「反響」。たぶん、柿沼は、そういうことを書きたいのだろうけれど、「反響」は、やっぱりおもしろくない。「復讐」でないと。
「反響」では、「現実」も「記憶」も、どちらも存在していることが条件としてひつようになる。「復讐」はどちらかがどちらかを殺してしまうこと。どちらかを殺してしまわないと終わらない。先へ進まない。まあ、「復讐」には怨念みたいなものかあって、それが嫌いというひとがいるかもしれないが、どちらかを殺して決着をつけるなんて、さっぱりしていていいなあ、と思う。
「復讐」がいやなら、「付言するまでもない」というような念押しはせずに、佐々木のように「さりげなく」、じっと耳をすませばいいのだと思う。
でも、まあ、「付言するまでもない」なんて、「付言」したくてしようがないから書いているのだから、これは無理な注文だね。「付言」したくてしようがない、書きたくてしようがないという気持ちのなかにこそ、詩、文学があるのだから、これは注文してはいけない注文だね。
わかっているけどね。
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