有田忠郎「風に聞く」、富岡郁子「オレンジの皮」 | 詩はどこにあるか

詩はどこにあるか

詩の感想・批評や映画の感想、美術の感想、政治問題などを思いつくままに書いています。

有田忠郎「風に聞く」、富岡郁子「オレンジの皮」(「乾河」57、2010年02月01日発行)

 「乾河」の同人たちには、なにか気分的に通い合うものがある。いや、通い合わせているふうをして、ほんとうは違っているという、不思議な関係を持っている。私はときどき、感想を書こうとして、あれ、どの作品の感想を書こうとしていたのかな、何を書くつもりだったのかな、とわからなくなるときがある。

 有田忠郎「風に聞く」は楽しい詩である。

霧子の夫は樵をしていた
森の木を伐り 風の道をつくり
夕べに斧をおいて
小屋にかえる
あたたかいたべものは
霧子の手で用意され
簡素な皿に盛られた

風に聞いた話である

 「きりこ」「きこり」「きをきり」「つくり」「おの」「おいて」という音の響きあいがおもしろい。とても軽い。あ、有田もこういう詩を書くのか、と思いながら読んだ。
 これは、つぎのように変わっていく。

いまは二人で
じゃこめ亭という
レストランを開いている
ろぐはうすの小さなレストラン
テエブル三つ
椅子六つ

風に聞いた話である

 「じゃこめ亭」というのは、まあ、霧子か樵だった夫の趣味(?)か知らないが、あ、このきざったらしさ(?)いやだなあ、と思っていたら。

森の落葉の爽やかな
水をわたしは思う その水は
空のなかにも流れている
ひかりのしずく 散るしぶき

飴のいちにち
書店や画廊めぐり
探し歩いて
キリコの作ったオブジェを見つけ
夫妻に贈った 実は
ちいさな画集だが
タブロウはほとんどオブジェ
と言ったのは
ジャコメッティではなかったか

 「霧子」「キリコ」「じゃこめ亭」「ジャコメッティ」。最初の遊び(音楽)が、最後にもう一度あらわれる。
 そして、それは音の遊びだけではなく、ちょっとおもしろいことも考えさせてくれる。

テエブル三つ
椅子六つ

 この「三つ」とその倍数の関係が、とてもいろいろ考えさせてくれる。「キリコ」「ジャコメッティ」は2人。3人目はだれ? 「三つ」なるための「3人目」はだれ? 「夫(樵)」かな? ではなくて、私は「わたし(有田)」だと思う。
 「霧子」を知っている「わたし」は「じゃこめ亭」を知っている。そして「キリコ」を知っている「わたし」は「ジャコメッティ」も知っている。「わたし」と「わたし」はほんとうは1人だけれど、何を知っているかで違う人間と考えると、3×2=6という算数が成り立つね。
 「わたし」と「わたし」は違う--というのは、まあ、こじつけみたいなものだけれど、そのこじつけのために「森の落ち葉の爽やかな」からはじまる4行がある。ひとは、なんでも思うことができる。そして、その思ったことを知っていることに結びつけると、そこに知っていたことがちょっと違った形であらわれてくる。
 「霧子」が「キリコ」に、「じゃこめ亭」が「ジャコメッティ」のように。
 でも、まあ、それは「風の噂」(風に聞いた話)のように、ふわふわとした軽いなにかなのだけれど、ね。
 この軽い楽しさ--これが今回の有田の詩のおもしろさだ。



 富岡郁子「オレンジの皮」には、また別の芸術家が登場してくる。

アポリネールが三十八歳で死ぬ五日前の新聞記事で
オレンジの皮について書いている
戦争がオレンジの皮を一掃したと

おぼえているだろう
かつては
道ばたに階段に
オレンジの皮が捨てられていた
すべった思い出が一つや二つはあるだろう
踏み外したことがあるだろう
滑って転ぶ
踏み外して迷ってしまう
なんてすてきな無駄遣いの時間だろう

 この「無駄遣いの時間」が、私には「霧子」「キリコ」「じゃこめ亭」「ジャコメッティ」という「遊び」につながっているように感じられるのである。そんなものを結びつけて遊ぶのは「むだ」。けれどその「むだ」はすてき「音楽」。

光を集める果実
おいしいオレンジ
手にとって触ってる人を見たことがあるだろう
セザンヌの絵の中の果実でなく
皮をむいて食べる
したたる果汁を吸う
手がオレンジの味になる
それ
欲しくなったら買って即食べる
それ

 この連で繰り返される「それ」が、私には「無駄」と同じものにみえる。「それ」というのは「意識」になじんだもの、いちいちことばで説明しなくてもいいなにか--他人と共有できるなにか。「手がオレンジの味になる」が特に「無駄」っぽくていいなあ。ねえ、手がオレンジの味になったからといって手を食べれるわけじゃない。けれど、楽しいねえ。うれしいねえ。食べたって感じ、満足感につながるねえ。
 「無駄」というのは、きっと「満足」ということとも関係している。
 「霧子」「キリコ」「じゃこめ亭」「ジャコメッテイ」を結びつけるなんて「無駄」、でも、そういう遊びをすると「満足」しない?

 富岡の詩は、このあとちょっと変わっていく。

街はきれいになった
自分の部屋よりきれいになった
オレンジの皮はもう落ちていない
じゃ聞く
人はどこで
踏み外し
転ぶんだろう

形を変え言葉を変えもっと大きなイクサが
今 ある

 「無駄」「無駄」の満足を奪いさっていくイクサが、いま、ここにある、と富岡はいいたいのだろう。「戦争」と「イクサ」のあいだにはいって、「イクサ」が「戦争」になってしまわないようにするために、ことばは何ができるか。
 などということまでは、私は、ちょっと考えたくない。
 重要な問題なのかもしれないけれど、「乾河」の二人の作品で、私は「遊び」「無駄」が人間にとって欠かせないものであるという感覚を受け止めた--ということだけで、あ、詩を読んでよかったなあ、と「満足」したのである。




光は灰のように
有田 忠郎
書肆山田

このアイテムの詳細を見る