阪神大震災後を記録した詩集である。「生きのびる」という作品に、とても不思議なというか、はっと胸をつかれる1行がある。
新潟で夕方に震度7の地震があった日の午後
いつものように木を見に行って気がついた
むき出しの木質部がさらに広がっていた。
近づいてみると
焦げた樹皮の一部が浮いている。
触れると剥(は)げそうで
剥げ落ちて白い木質部が広がった。
--なぜ、今なのか。
九年前の一月の震度7の寒い朝に
燃えた街で焼けた木は
あれから黒焦げの樹皮を落として
木の芯をあらわにしたが。
焦げていないまわりの樹皮がふくらみ
盛りあがって木の芯を包みこんだ。
生きのびて立つ木。
--それがなぜ、今。
カルス【calls 】
傷ついたとき受傷部分に盛り上って生ずる癒傷組織。
ここで質問。
この九年間ずっとこの木は焦げた樹皮を落し
カルスを生じてきたのでしょうか。
これからもこの焼けた木は焦げた樹皮を落し
カルスを生じるのでしょうか。
--ほんのすこしでもいい、思ってください。
焦げた樹皮の地に落ちる乾いた音
滑らかな木の芯の発するつらいやさしい声。
日の記憶。
生きのびた木が
生きたいと立っている。
そのそばで生きのびた人が
生きたいと並んで立っているのだが。
3連目の最終行。「--ほんのすこしでもいい、思ってください。」は、木が常にカルスを生じてきたか、そしてこれからもカルスを生じさせていきるか、そのことを「思ってください」というのだが、この「思う」とは、どういうこころの動きだろう。「思う」の前の行は、疑問形である。だから、この場合の「思う」は考えるということになる。「これまで生じてきかた」「これからも生じるだろうか」という疑問形である以上、その疑問を「思う」ということは「はい」か「いいえ」の「答え」を考えるということになる--はずである。
ところが、「思う」というのは「考える」ということとは違うのだ。「考え」れば、こたえは「とい」「いいえ」になるが、「思う」とき、そこには「はい」「いいえ」以上のものが含まれてしまう。
4連目は、安水の自問自答、その自らの答えにあたるが、そこには「はい」「いいえ」はない。「はい」「いいえ」を超えたものがあふれている。
生きたいと立っている
これは生きたいと「思い」立っている--という意味である。「思ってください」の「思って」は、この行の省略されている「思い」につながるのだ。カルスが生じたか、これからも生じるかを考えるのではなく、その木が生きたいと「思っている」ということを「思う」--木といっしょに、その「思い」を共有する。そうしてください、と安水は書いているのである。
「生きのびた人が/生きたい」と「思う」。それは、生きのびることができなかった人たちもまた、きっと生きのびたいと「思い」ながら亡くなっていったと「思う」ことなのである。
ことばは、省略されたとき、強くなる。省略されるのは、そのことばが、書き手にとってあたりまえのこと、あたりまえすぎてことばにすることを忘れてしまうような大事なこと、つまり「思想」だからである。
「思想」は書かれたことばのなかにあるのではなく、書くことさえ忘れてしまったことば、省略されてしまったことばのなかにある。
そしてそれはいつも、つかわれるとしても、すこし違った「意味」であらわれてきてしまう。「思ってください」のように。あるいは、また別のことばとなってもあらわれる。
「神戸 はじまりの歌」の4連目。
あのとき亡くなった人は
いなくなったのではない。
あの人は私のなかで微笑(ほほえ)んでいる
わたしが忘れないかぎり。
あの人たちはわたしたちといっしょに生きていてくれる
わたしたちが生きているかぎり。
わたし(わたしたち)が「忘れない」かぎり、「生きている」かぎり、の「忘れない」「生きている」とは、別のことばで言えば「思う」なのだ。そして、その「思う」は必ず「生きたい」という「思い」なのだ。
生きたいと「思う」とき、その「思い」のなかにかならず亡くなった人たちは、いっしょに「生きてくれる」。
安水は、繰り返し繰り返し、そのことを書いている。
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