郡宏暢「土」に「来歴」ということばが出てくる。
この土地は
来歴を持たない
零れ落ちた麦穂と
乳色の灌木
そして鳥のように閃く影を差すだけの高さと時刻
とが
土手下に行き止まったまま
堆く積まれ
風上から
この土地に無縁な人たちによって火が放たれる
「来歴」とは何だろう。私は簡単に「過去」と考えている。きのう読んだ秋山基夫の詩に関連づけて書けば「物語」。「いま」を「いま」「ここ」に成立させているための構成要素。そこには「事実」があり、また、その「事実」と向き合って考えられた「思想」がある。それが「来歴」であり、「時間」というものだ。
郡は「この土地は/来歴を持たない」と書く。そして、その「来歴」のかわりに「時刻」を持っている、と書く。「時刻」が「行き止まったまま/堆く積まれ」ている。それは「いま」が「過去」から切り離され、そこに存在している、ということだろう。
それは、あるいは、「この土地」の「過去」は、「いま」「ここ」で封印されるということかもしれない。「過去」を持たないのではなく、「過去」が「いま」「ここ」で封印され、なかったことにしてしまう。「いま」、そういう瞬間に、郡は立ち会っていて、それをことばにしている。
「過去」が無効にされる瞬間、ことばは動いて行かず、思わず「来歴を持たない」と書いてしまう。「過去」を無効にされた状態へことばが暴走し(先走りし)、そこから「いま」をみつめているのだ。
そのことばの暴走(先走り)を、「過去」が追いかけてくる。「土地」の「過去」は火を放たれることで「無効」にされる。そこに何があったか、その痕跡を消される。けれど、たとえ土地がまっさらになろうと、記憶は「無効」にはならない。「無効」を宣言するものを飛び越えて、よみがえってくる。「土地」を越えて、「人間」へ直接結びついてくる。
一斉に走り出した犬
と それに追われる焦燥の中で
例えば白い病院が燃え
人々の行列が燃え
毛深い寒さだけが針のように折れ曲がる
かつて路地だった場所を吹き抜ける風
が紅く染まり
石鹸と歯ブラシと錆びた剃刀以外の
何物をも持たなくなった私たち
大きな家族風呂のような平野で
体の汚れを落とし
髭を削ぎ落とし
今までもそんなふうににして毎日を送ってきたのだ
と
僅かな湯気を分け合いながら
古毛布の中
肩を寄せ合っている
「土地」の「来歴」が「無効」にさせられたことは「過去」にもあったのだ。それは「ここ」ではないかもしれない。別の土地だったかもしれない。その土地に向かって、あるとき「火」が放たれる。火に追われ、逃げまどう人々。逃げ、そして、ふたたび帰ってきて、そこに「かつて路地だった場所」を、つまり暮らしの痕跡を、「過去」を見つける。「過去」と「いま」を結びつけるものは、そのとき「石鹸と歯ブラシと錆びた剃刀」だけである。暮らしを清潔にととのえる基本的なもの、それだけである。その「事実」は、その「土地」の暮らしというものが、暮らしを清潔にととのえるだけのぎりぎりのものであったということを静に語る。そして、そういうつましい暮らしを、火を放って消し去る暴力というものがあるのだ。
それは、「過去」のことだけではない。「いま」も。
あらゆる「場所」は、「過去」に火を放ち、「過去」を消し去ってしまうという「暴力」の「来歴」を持っている。
「この土地は/来歴を持たない」は「反語」である。「土地」は「来歴」を持たないかもしれないが、そこにはある人々が別の人々に対してふるってきた「暴力」の「来歴」を持っている。「土地」が「来歴」を持たないんとしても、人間は「来歴」をもっていて、その「来歴」は、それぞれ個別の「土地」と結びついている。
この「記憶」は消えない。
夜明けまでに
わずかに思わせぶりな地名も
平らに燃え尽きてしまうだろう
あのプラタナスの並木も自然体に還り
出口に折り重なるようにして燃え尽きた影
としての私たちの姿だけが
記憶されるだろう
季節と土地
が
冬風に舐められながら
燃える
地図よりも前にあった地形を
再び
晒すように
郡の詩は、そのことばは、その「土地」の「来歴」が燃え尽くされるよりも前の、人間の「暮らし」の「来歴」、「暮らし」の「形」を少ないことばで、静に語り、暴力に抗議している。暴力を告発している。「晒す」は、隠しているものを見えるようにするということなのだ。