中島まさの・中島友子『まさのさん』は母と娘の2人の詩集である。前半に母・まさのの詩をおさめ、後半が娘・友子の詩で構成されている。母・まさのは死去している。
まさのの詩を読んだだけだが、不思議な強さがある。
「八十八歳八か月」という詩が最後におかれている。死の直前の作品と思われる。
これから
どんどんやせて
死んでいくやろう
多田さんも
土山さんも
松岡さんも
みな のうなった
みんな死ぬんや
どうもないがな
私はついつい余分なことを書いてしまうが、ここには余分なものがない。見当たらない。
私は、詩は余分なもの、言おうとすること(ストーリー)からはみ出していくものだと考えている。その私の定義からすると、こういうことばに詩はないはずなのだが、私の定義を裏切るように(?)、あ、いいなあ、と感じてしまう。
でも、ほんとうにはみ出していくもの、はみ出したものがないのかな?
ある、と思う。
何が過剰か。何が「ストーリー」をはみ出しているか。「行間」である。
みな のうなった
みんな死ぬんや
この2行には、「行間」はない。ない、というと変な言い方になるが、この2行は関西弁(?)と標準語で繰り返しているだけである。同じことを言っている。2行は重なり合っている。
でも、次の
どうもないがな
はどうだろう。どう、つながるのだろう。脈絡があるようで、ない。
私は、この脈絡の「ない」状態をもちこたえることができなくて、ついつい、「説明」の道筋をつけてしまう。「行間」に「意味の橋」をかけてしまう。
中島まさのは、そういう「意味の橋」を思いつかないほど、過剰な「行間」を提出する。それがあまりに過剰すぎて、差し出された「行間」が「見えない」。見えないので「ない」と思ってしまうが、それは「ない」のではなく、読んでいる「私、谷内」をすっぽりと包んでしまっているのだ。
だから。
あ、娘の中島友子に語りかけたことばなのに、それは私、谷内に対して語りかけているように感じてしまう。
私は母の死に目に会えなかった親不孝な人間だが、こういう詩を読むと、あ、母もそんな気持ちで死んでいったかな、となぜか安心する。
「娘へ」はとてもいい作品だ。この作品を成立させているのも、巨大な「行間」である。 「行間」が巨大すぎて、そこには不純物が存在しえない。「行間」になにが紛れ込もうが、そんなものはミクロの塵の存在になりえない。
人が言うてくれてのは
できると思てやから
受けたらええ
やってみることや
この大きな「行間」。そこにすっぽりと入り込むうれしさ。いいなあ。