中島まさの・中島友子『まさのさん』 | 詩はどこにあるか

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中島まさの・中島友子『まさのさん』(編集工房ノア、2010年01月26日発行)

 中島まさの・中島友子『まさのさん』は母と娘の2人の詩集である。前半に母・まさのの詩をおさめ、後半が娘・友子の詩で構成されている。母・まさのは死去している。
 まさのの詩を読んだだけだが、不思議な強さがある。
 「八十八歳八か月」という詩が最後におかれている。死の直前の作品と思われる。

これから
どんどんやせて
死んでいくやろう
多田さんも
土山さんも
松岡さんも
みな のうなった
みんな死ぬんや
どうもないがな

 私はついつい余分なことを書いてしまうが、ここには余分なものがない。見当たらない。
私は、詩は余分なもの、言おうとすること(ストーリー)からはみ出していくものだと考えている。その私の定義からすると、こういうことばに詩はないはずなのだが、私の定義を裏切るように(?)、あ、いいなあ、と感じてしまう。
 でも、ほんとうにはみ出していくもの、はみ出したものがないのかな?
 ある、と思う。

 何が過剰か。何が「ストーリー」をはみ出しているか。「行間」である。

みな のうなった
みんな死ぬんや

 この2行には、「行間」はない。ない、というと変な言い方になるが、この2行は関西弁(?)と標準語で繰り返しているだけである。同じことを言っている。2行は重なり合っている。
 でも、次の

どうもないがな

 はどうだろう。どう、つながるのだろう。脈絡があるようで、ない。
 私は、この脈絡の「ない」状態をもちこたえることができなくて、ついつい、「説明」の道筋をつけてしまう。「行間」に「意味の橋」をかけてしまう。
 中島まさのは、そういう「意味の橋」を思いつかないほど、過剰な「行間」を提出する。それがあまりに過剰すぎて、差し出された「行間」が「見えない」。見えないので「ない」と思ってしまうが、それは「ない」のではなく、読んでいる「私、谷内」をすっぽりと包んでしまっているのだ。
 だから。
 あ、娘の中島友子に語りかけたことばなのに、それは私、谷内に対して語りかけているように感じてしまう。
 私は母の死に目に会えなかった親不孝な人間だが、こういう詩を読むと、あ、母もそんな気持ちで死んでいったかな、となぜか安心する。

 「娘へ」はとてもいい作品だ。この作品を成立させているのも、巨大な「行間」である。 「行間」が巨大すぎて、そこには不純物が存在しえない。「行間」になにが紛れ込もうが、そんなものはミクロの塵の存在になりえない。

人が言うてくれてのは
できると思てやから
受けたらええ
やってみることや

 この大きな「行間」。そこにすっぽりと入り込むうれしさ。いいなあ。