ことばが暴走する。
いや、そうではなくて、想像力が暴走するのだ--という言い方があるかもしれない。
けれども、ことばなしに、想像力は暴走しえないだろうと思う。
おおしろ建「爪・足の小指の場合」は、足の爪を娘にからかわれた父親が「島の言い伝え」を思い出す詩である。
海岸で若者と犬は娘を巡って闘った 何日も海は血で染まった
ついに犬が勝った
犬は意気揚々と娘を引き連れ横穴に消えた
やがて子供が次々と産まれた
これがその島の創世記の話である
以来 島の人々は犬の子孫と呼ばれた
その証拠に今でも
足の小指の爪は犬の爪のままだという
むすめに言われて足の小指を見れば確かに
おかしな形で、犬の爪にそっくりである。
なぜか夕暮れともなれば、そわそわして出かけたくなり
挙げ句の果てには、夜の巷で遠吠えを繰り返している。
「島の言い伝え」(ことば)は、ことばゆえに暴走する。「何日も海は血で染まった」というようなことば、ことばでしか存在しえない世界である。だれが、なんのために暴走させたのか、暴走させることで何をつたえたかったのか、何を隠したかったのか--何の説明もない。
それが、いさぎよくていい。
私がおもしろいと思うのは、その「言い伝え」の暴走のあとである。ことばが暴走したあと、それを批判するのではなく、暴走にのっかってしまう。暴走にのっかって、「これは私の暴走ではない。これは島の言い伝えである。私はそのことばを生きているだけだ」と開き直るようにして「犬の子孫」になり、「犬」そのものにもなってしまう。
爪が犬の爪の形をしていたからといって、その人が犬であるわけではないのだが、爪が犬の形をしているからということを利用して「犬」になってしまう。
「犬」は「比喩」であって「現実」ではない--と言う人がいるかもしれないが、そうではなく、「暴走」するいのちの中にあっては、「比喩」そのものが現実である。「比喩」を超越する現実はない。
いま、ここを振り捨てて、自由になるために「比喩」を利用する。ことばを利用して、ことば以上に暴走する。いま、ここを超越するために、ことばがあるのだ。
最後の2行は、明るくて楽しい。「ことば」をいいはじめたのは、私ではない--と開き直って、ことばを利用している「犬」になってしまい、まだ人間でいるしかない娘を笑っている。