松川紀代『異文化の夜』に「深更」という詩がある。松川紀代という詩人を私は知らないが(たぶん、はじめて読むのだと思うが)、突然、この詩人が好きになってしまった。短い詩なので、全行引用する。
具合がわるくなって
私は自分の部屋で眠っていた
時間がたって
部屋は真っ暗(のつもり)
扉という扉が全開で
二階の踊り場も こうこうとしていた
同じ階下で 誰かがジャズを聞いていた
食器の音 椅子をずらす音
なんだか知らないけれど
マリアが窓を開けた
娘や息子も 真昼のように談笑している
横向いて こころ空っぽにして 薬包をさがす
2連目の(のつもり)がいいなあ。部屋は真っ暗ではない。けれど、そのつもりになってみる。そして、「真っ暗」ということばの方へことばを動かしていこうとする。すると、逆に、ことばは「真っ暗」ではなく、「明るい光」を集めてきてしまう。
ことばと「現実」が「ずれ」てしまって、そこに不思議な「肉体」があらわれてくる。
扉という扉が全開で
二階の踊り場も こうこうとしていた
同じ階下で 誰かがジャズを聞いていた
食器の音 椅子をずらす音
これは、「私」が「部屋」のベッド(たぶん)にいて、めざめて、それから想像した「世界」の風景である。想像したといっても、「空想」ではなく、「いま」「ここ」と触れ合う「肉体」が集めてきたものが、こういうことばになっているのだ。
実際に「二階の踊り場」を見てきたわけではない。けれど、部屋のなかに入ってくる光から、そう「想像」している。階下から聞こえてくる音を聞き、「想像」する。その「想像」がことばになって動いていく。
この、ことばの動き、それが描き出すもの--それは、やはり(のつもり)というものに含まれてしまう。
「部屋が真っ暗」というのが「のつもり」なら、「扉という扉が全開で/二階の踊り場も こうこうとしていた」というのも「のつもり」であってもいいのだ。「のつもり」ということばが、松川と世界をつないでいく。「のつもり」のなかに松川がいる。
いいなあ、この正直さ。
あらゆることは、ことばにすることで、はっきりと存在しはじめる。けれど、その「はっきり」が実はほんとうではなく、ことばで描いただけの「のつもり」だとしたら?
実際、わかっていることなど、なにもない。何があって、何がないか、もし何かがあるとして、それはなぜあるのか、どのようにして「ある」という状態をたもっているのか--なにもわからない。すべて「のつもり」でいるだけなのである。
と、いってしまうこともできるかもしれない。
もし、そうであるなら、そのとき、「私」の「のつもり」のほかに、「他人」の「のつもり」がからみあったら? 何が起きる? 何が「ある」ということになる?
なんだか知らないけれど
マリアが窓を開けた
ほら、「なんだか知らないもの」が、ふいにあらわれてくる。それも、もしかしたら「のつもり」かも……。
こういうとき、自分の「肉体」が深々としてくる。わけのわからないものが「肉体」の奥に沈んでいることがわかる。--これ、なんというのだろう。きっと「悟り」とか「覚醒」とかとはまったく逆の状態だな。すべてが未分化、未分節。こんとん。そこから、なにかがあらわれてくるのを待つしかない。
「私」は、いま、「未生」の状態。(のつもり)
これは、ちょっとことばにならない。(のつもり)ということぐらいしかできない。そのことばにならないものを、ことばにならないまま、(のつもり)の状態で書き記すことのできる「正直さ」--これが、私は好きだ。
「深い亀裂」という作品も大好きだ。病院へ祖母を見舞いに行く。幼い息子が病院の階段をどこまでもどこまでものぼっていく……。
幼い息子はどんどんかけのぼっていった
止まりなさい
子供は走っていって
向こう側で ポカンとしていた
追いついて愕然とした!
息子の一歩手前 幅五十センチほどもある溝で
二階分はありそうな深い亀裂が下へ
夫にも 祖母にも
そのことを私は黙っていた
どうしゃべったらいいのか
無難な言葉にはできなくて
「どうしゃべったらいいのか」わからない。そして「黙っていた」。でも、……書いてしまう。ことばは、黙っていても、「書く」ことができる。そして、その「書く」ということ、あるいは「書かれたことば」は、ほらほら、動いていこうとしている。どこへ? 知ってるくせに。
知っているから、ちょっとこわくて、(のつもり)とはぐらかす。はぐらかした、の、つもり。
ことば--書きことばが「暴走」を待っている。詩が始まるのを待っている。それをしっかりみつめて、(のつもり)という。いや、書く。「暴走したらダメよ」と言い聞かせて、「暴走」を促しているのだ。ほら、誰だって「ダメ」といわれたら、「ダメ」といわれたことをしたくなるでしょ?
いいなあ、この感じ。
「深い亀裂」で、ほんとうに見たのは何? 松川は、それを読者の「誤読」にまかせている。あ、そうなのだ。ことばが暴走するとき、そこには作者の思いではなく、読者の思いが噴出してくるのだ。
「話しことば」では、こうはいかない。「書きことば」だから、それは作者の手を離れ、ただ「暴走」するのだ。
いや、「暴走」する(つもり)。「暴走」した(つもり)
いいなあ、ほんとうにいいなあ、いいなあとしかいえない、この感じ。
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