きのう、北川透「第三の男へ」の感想を書いた。書いているうちに、だんだん、書いていることが「ずれ」てきてしまった。「ずれ」ながら、別の書きたいことに近づいていってしまった。ことばは、まあ、そんなふうに、あっちへいったり、こっちへきたりしながら動いてしまうものなのだろうなあ。
私は、そんなふうにしか書けない。
きょうは、孫文波「古を詠む詩 江南を懐かしむ」の感想を書いてみたい。書いてみたい、と思うのは1行目が好きだからである。
言葉による想像は暴走する。川を渡れば、
ああ、「言葉による想像は暴走する」--それは、そのままきのう読んだ北川の詩に対する感想になってしまう。おとつい読んだ陳黎の感想にもつながってしまう。「いま」、ことばは、国を超えて、同じように暴走しているのかもしれない。
そして、その「言葉」は、「話しことば」ではない。「書きことば」だ。詩として書かれたことばが暴走するのだ。きっと。
「話す」というのは、目の前にことばを聞く相手がいる。そのとき、ことばは暴走しにくい。「話しことば」も暴走するかもしれないけれど、暴走しはじめると、きっと相手が、「いま、なんて言った?」と聞き返すと思う。「話しことば」はいつでもその暴走を邪魔する相手と向き合って動くしかない。
けれど、「書きことば」には、その暴走をとめる「相手」がいない。ひたすら暴走していけるのだ。書かれていることば、印刷されていることば、「声」と違って、肉体を離れたあとも消えてしまわないで、紙の上に存在している。存在を確立して、その確立された存在を土台にして出発し、暴走できるのだ。(話されたことばもまた、「脳」のなかに存在しているから、「脳」を出発点に暴走できる--なんていう反論は、とりあえずしないでくださいね。)
そして、いったん書かれてしまうと(印刷されてしまうと)、その「ことば」の所有者はだれかわからなくなる。書いたひとは著作権は私にある、というかもしれないけれど、そういう「法律」の問題ではなく--ことばは、「書かれたことば」は、書いたひとの思惑(書いた人がこめた「意味」)を無視して、読んだ人によってかってに「誤解」される権利を持っている。その「誤解」を利用して、ことばは暴走するのだ。
たぶん、書いた人も、書いてしまったことばを読んだ瞬間、なぜそのことばを書いたかよりも、そのことばをどう「誤読」して、その先へ動かしていけるかを考えるのだと思う。私は、少なくとも、北川は、そういうことばの動かし方をしている詩人だと思う。
書く、書いて読む。その行為の断絶と継続、その飛躍と飛躍を否定しようとする粘着力のようなものの間で、ことばをより自由にしようとしている。書く、書いて読む、という行為のなかで、「書きことば」が「書いた」ときの「意識」とは無関係に読み替えられ、暴走をはじめる。その暴走に、ことばの自由を感じる--そういう詩人に見える。
「言葉による想像は暴走する」と書いた孫文波もまた同じような詩人だと思う。
そういう前提に立って、私のことばは動いていくのだが……。
言葉による想像は暴走する。川を渡れば、
これはほんとうにおもしろい1行だ。
「言葉による想像は暴走する。」ということばと、「川を渡れば、」の間にはなんの脈絡もない。中国語のことは私はわからないが、「川を渡れば」という部分だけを読むと、その「主語」は「言葉」とも「想像」とも「私」ともとることができる。日本語では「私」は省略できる。「話しことば」の場合、「主語」はなんとなく、話していることばの調子、声の調子で想像がつく。けれど書きことばには、そういう手がかりはなにもなく、ただほうりだされている。だから、この1行だけ読んだとき、読者は、「主語」を「言葉」「想像」「私(これはまだ書かれていないが……、そしてこれはあるいは「あなたが」かもしれないのだが……)」から自由に選びとることができる。
それはこの1行を書いた孫文波にとっても同じである。
「言葉による想像は暴走する。」ということばを書いたとき、孫文波はなにか特別なことを考えていたかもしれない。けれど、それをいったん書き終え、読み返したとき、「主語」を唐突にかえることもできるのだ。そういうことが「書きことば」では起きる。そして、暴走が始まるのだ。
ここでの実際の暴走は……。
言葉による想像は暴走する。川を渡れば、
赤い灯が手招きするし、緑の酒もしかり。
霊隠寺、鶏鳴寺、しめて四百八十寺、
線香や蝋燭は盛んに焚かれるが、目にするのは経は読まずに
賽銭勘定に忙しい和尚。柱に読書人の家柄の扁額が掛かる家で
<秀才>の子孫は詩文を読まず、経済の活性化に専心する。
そうして娘たちはいたるところに花のよう、紅の香りが顔を打ち、
風流の士は老荘の哲学を語らず、スリーサイズを語るばかり。
キュッとアップの白いヒップこそ、まさしく水豊かな春の川の流れる地である。
詩のタイトルにあるとおり、古(いにしえ)をさまよいつつ、現代へとわたりあるく。ことばは、どんなふうにでも噴出する。
「言葉による想像は暴走する。川を渡れば、」というはじまりの1行の、切断と連続、飛躍と粘着を、どこまでも拡大する。暴走する。
--とは、いいながら、ねえ。
ここにも「ことば」の「気脈」を感じてしまうのだ。過去と現在がぶつかり、さまざまなことばがでたらめに噴出してくるようであっても、そこには「気脈」があるのだ。「気脈」としかいいようのないなにかがある。
私は、そのなにかを「音楽」と感じている。「音」と感じている。
「話しことば」と違って「書きことば」は「音」をもたないように見えるが、ほんとうは「音」をもっているのだ。そして、その「音」が響きあって、自分に気持ちいいものと通い合い、「ことばの肉体」はセックスし、こどもを生むのだ。「意味」ではなく、「音楽」となって、どこかへ飛んで行ってしまう。消えていってしまう。
書きことばは、「音楽」になることで、話しことばを超越していくのだ。「音楽」は消える--けれど、楽譜のように、そこに「書きことば」が残っている。そして、それが「音」を誘う……。
あ、また、わけのわからないことを書いてしまったなあ。
「現代詩」--同じようにことばが暴走し、「意味」を拒絶する詩のなかでも、とても読みやすいものと、読めども読めども読み進むことのできない詩がある。とても読みやすい詩は(たとえば北川の詩は)、そのことばのなかに「音」がある。「音」の「気脈」が通い合っている。音楽がある。--これはもちろん「印象」であって、具体的に証明できることではないのだが……。
孫文波、北川、陳黎--この3人が互いの詩を、そのことばをどう感じているか知らないが、私は、その3人のことばに、不思議に似たもの、通い合う「気脈」のようなものを感じた。
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