ことばは何の(どんな)力で動いていくのだろうか。ことばは動いていくのではなく、ひとがことばを動かす--という考えがあることは知っているが、私には、ことばはことばで動いていく、と感じられる。それは草花(植物)が草花自身の力で育っていくのに似ている。たしかにひとはそれを植えることができる。育てることができる。けれど、その草花そのものに生きる力がないと育ちはしない。同じことがことばにも起きていると思うのだ。
そのとき、ことばは、たとえば詩人の「土壌」から何を吸収し、どんな力を育てているのか。
「紀行」という断章でできた作品。その「4」の書き出し。
多摩人よ
君たちの河原を見に来た。
岩の割れ目に
桃の木のうしろに
釣り人の糸はうら悲しいのだ。
ヴィオロンの春だ。
よしきりの足跡は
小石に未だにぬれている
この数行は「旅人かへらず」を思い出させる。
旅人は待てよ
このかすかな泉に
舌を濡らす前に
考へよ人生の旅人
汝もまた岩間からしみ出た
水霊にすぎない
この考へる水も永劫には流れない
永劫の或時にひからびる
ああかけすが鳴いてやかましい
「紀行」の登場人物は「旅人」となって多摩の河原へやってきた。「岩間」ではなく「岩の割れ目」に目をやって、そこでことばを動かしはじめている。ただそれでは「旅人かへらず」と同じままだ。そこで、少し「ずれ」る。
岩の割れ目に
桃の木のうしろに
西脇のことばは「並列」を利用して(?)、すっと動く。そして、動いたあと、ことばは、ことば自身になってしまう。
桃の木のうしろに
釣り人の糸はうら悲しいのだ。
「うしろに」「うら悲しいのだ」。このふたつのことばは「意味」をもっているかもしれない。もっているかもしれないけれど、私は「意味」よりも「音」に誘われてしまう。「河原」「岩の割れ目」と「釣り人」はつながっているかもしれない。つながって、河原で釣りをする人というイメージ、「意味」を作り上げるかもしれない。
けれど、私は、そういう「意味」を忘れてしまう。
「うしろに」「うら悲しいのだ」--この「音」の響きあいのなかに引き込まれて、ほかのことを忘れてしまう。「桃の木の横」「桃の木の傍ら」では「うら悲しい」ということばは動いてくれない。「うしろに」「うら悲しい」でも、何かが微妙に違う。「うしろ」と「うら悲しい」が呼応し、「に」と「のだ」が呼応しあっている。「うしろ」という3音節、「うら悲しい」6音節のリズムが、「に」の1音節、「のだ」の2音節のリズムとして繰り返される。
こんな言語操作は意識してできることなのだろうか。私には意識してできることとは思えない。ことば自身が呼び掛け合って生きているからこそ、こういう不思議な音楽が生まれるのだと思う。
そして、そういう「音楽」となったことばは、西脇の「土壌」から、とんでもない(?)ものを吸い上げる。
ヴィオロンの春だ。
あらら。「ヴィオロン」と言えば「秋」でしょう。「うら悲しい」と言ったら「秋」でしょう。「秋の日の/ヴィオロンの」、それからなんだっけ、「うら悲し」でしょ?
西脇のことばの草木は、でも、そういうものを単純に吸い上げず、どこかでことばの関節を脱臼させ「春」となって噴出する。
この脱臼の瞬間にも、私は「音楽」を感じる。ゆかいな、笑う「音楽」だ。
それは「旅人かへらず」のことばを借りて言えば「やかましい」音楽だ。
この詩は、でも「旅人かへらず」ではないから、「かけす」は消える。かわりに「よしきり」が闖入してくる。そして、「濡れる(濡らす)のは「舌」ではなく、「小石」であり「足跡」だ。
よしきりの足跡は
小石に未だにぬれている
あ、なんと美しい「黒」。水のあと。光の春に、ふいに残された新鮮な色の対比。乾く小石の「白」と、そのうえの小さな「黒」い印。
この「黒」と「白」は、すこし進んで、次のようにかわってしまう。
黒玉のこの菫を摘み
はながみの間にはさんで
「黒玉」と「はながみ」(白)。「白」は「小石」でも「はながみ」でも隠されている。「はながみ」という乱暴な「音」は「白」というイメージを隠すのに最適だ。
それにしても、なんという不思議さだろう。
「はながみ」という乱暴な「音」ではなく、これが「ハンカチ」だったら、この詩の「黒」と「白」は「抒情」になってしまう。そしてきっと「音」を失ってしまう。「はながみ」という乱暴な「音」か、それまでのことばの奥にある「音」の呼応を活性化させているのだ。「ハンカチ」だと「抒情」に収斂してしまい、「意味」になってしまう。「古今集」あるいは「新古今」につらなる「意味」になってしまうが、「はなじみ」という「音」がそれを破って、もう一度「音」そのものにもどるのだ。
こんな動きは、とても人間には操作できない。いや、西脇はふつうの人間ではなく天才だから、その操作ができる、ということも可能だろうけれど、私は、こういう場合は、西脇は天才だから、ことばがそんなふうに勝手に呼応し合って「音楽」になるのをきちんと聞き取り、それをことばとして書くことができると言いなおしたい。あくまで、ことばが勝手に生きて、それを詩人が追いかけるのだ。
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