西岡寿美子「空に鳴る音」は、遠い土地の記憶を書いている。しかし、そこには「望郷」あるいは「郷愁」とは違ったものがある。
ノジ
を思い出した
今は地上にない幻の村だが
傾りに石積みの棚田が累々と拓かれ
里人の糧はみなここから得た
夜通し日通し
向かいの山を裂いて滾つ龍神の滝
轟々と揺れ震う家々
それは不断の子守歌として荒魂を養い
頬骨高く眼窩落ちた特異な面貌をも形造った
なぜ、思い出の土地を書いているのに「望郷」や「哀愁」ではないのか。文体が、奇妙に強くて、その強靱さが「望郷」「哀愁」を拒絶している。そこに不思議な魅力がある。「里人の糧はみなここから得た」という1行に何かが省略されているわけではないが、何かしら、余分なものを削ぎ落とした美しい響きがある。
「頬骨高く眼窩落ちた特異な面貌をも形造った」は「頬(が)骨高く眼窩(が)落ちた特異な面貌をも形造った」と、助詞「が」が省略されていると考えることができる。「里人の糧はみなここから得た」には、そういうことばの省略はないが、省略を感じてしまう。「里人の糧は」という「主語」のあり方に秘密があるのかもしれない。
ふつうは、どう書くか。いや、私なら、どう書くか。
里人は糧のみな(すべて)をここから得た
私は「主語」を「里人」にしてしまう。ところが、西岡は「主語」を「里人」にしない。そこに、私の感じた一種の「厳しさ」の理由がある。
この詩において、「主語」は「私」を含む人間ではないのだ。「里人」はこの詩では「主語」にはならないのだ。
この詩の「主語」は「土地」なのだ。「今は地上にない幻の村」の、その「土地」そのもの、「ノジ」と呼ばれる「土地」が「主語」である。「望郷」も「哀愁」も「人間」を「主語」とするときの、こころのありようだ。「土地」にはこころなどない。したがって、そこには「望郷」も「哀愁」も入り込む余地はない。そして、そのことが、この詩を美しいものにしている。
別な言い方をしよう。
この詩の「主語」は「人間」ではない。それは、
頬骨高く眼窩落ちた特異な面貌をも形造った
という1行をよく読めばわかる。私は先に「頬骨(が)高く眼窩(が)落ちた特異な面貌をも形造った」と、助詞「が」が省略されていると書いたが、これは正確ではない。ほんとうは、
(土地が)頬骨(の)高く眼窩(の)落ちた特異な面貌をも形造った
なのである。
「が」ではなく「の」。
その「の」は「里人の糧は」の「の」と同じである。
そして、
里人の糧はみなここから得た
は、次のように読むべきなのだ。きっと。
(土地が)里人の糧のみなを、ここで造った
そう読むとき、2連目の「頬骨高く眼窩落ちた特異な面貌をも形造った」の「をも形造った」の「をも」、その「も」の意味がわかる。なにもか「も」、あらゆるものを、土地が造るのである。人間が造るのではない。土地が造る。この「世界」にあるものは、全て「土地」がつくったものなのだ。
その「土地」を、西岡は「土地」ではなく、「空」から描く。「空」を描くことで、「土地」が産んだものを、「空」の彼方へほうりやる。「空」はそのとき「そら」ではなく「くう」になる。そしてその「くう」とは「色即是空、空即是色」「空」にもなる。
西岡は、詩の最後で凧あげのことを書いているのだが、その凧は「色即是空、空即是色」の「即・是」という「色」と「空」を「結びつける」もののように感じられる。
ビーン ビーン
凧のカブラが空に鳴る
千切れた凧尾(ジャーラ)が三宝山の背に飛ぶ
--どこへ行ってしまったのだ
離れ凧よりもジャーラよりも行方さだめず
あの日わたしの周囲で凧糸を操った若い手の持ち主らは
物生り滋味とも濃い
ノジの耕土をすべて造林の底に沈め果て
先祖墓さえも掘り上げて背負い
異土にさまよい出て音信も絶えた
一目であの土地の出と知れる異相の誰彼は
西岡は、何かしら強靱な「哲学」を生きている。
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