「燈台へ行く道」を読むと、なんとなくヴァージニア・ウルフを思い出す。タイトルの影響かもしれない。あるいは、ことばの運動というか、動きが、いわゆる「意識の流れ」のように思えるからかもしれない。
次の部分が、とても好きだ。
岩山をつきぬけたトンネルの道へはいる前
「とらべ」という木が枝を崖からたらしていたのを
実のついた小枝の先を折つて
そのみどり色の梅のような固い実を割つてみた
ペルシャのじゅうたんのように赤い
種子(たね)がたくさん、心(しん)のところにひそんでいた
暗いところに幸福に住んでいた
かわいい生命をおどろかしたことは
たいへん気の毒に思つた
そんなさびしい自然の秘密をあばくものでない
その暗いところにいつまでも
かくれていたかつたのだろう
「気の毒」。そして「さびしい」。あ、このことばは、こんなふうにして使うのか、と、こころがふるえる。
そのふたつのことばは「生命」とふかく結びついている。「生命」はいつでも「さびしい」。「さびしい」まま生きている。そこに美しさがあるのだから、それをあばいたりしてはいけないのだ。
--ここには、西脇の、とても独特な「音楽」がある。
それは、私がいままで何度か書いてきた「音」そのものの「音楽」とは別のものである。
「音」のない「音楽」。沈黙の「音楽」。ことばにしてはいけない「音楽」。
西脇は、ときどき、ことばにしてはいけないことをことばにしてしまう。
それは武満徹が沈黙を音楽にしたのと似ているかもしれない。
意識の流れ--と書いたが、あ、これは、ことばを捨てる動きなのだと思う。ことばを捨てるとき、そのことばの奥に隠れているものが、「とらべ」の固い実のなかの種のように姿をあらわす。
ことばには、そういう動きもある。
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