誰も書かなかった西脇順三郎(102 ) | 詩はどこにあるか

詩はどこにあるか

詩の感想・批評や映画の感想、美術の感想、政治問題などを思いつくままに書いています。


 「燈台へ行く道」を読むと、なんとなくヴァージニア・ウルフを思い出す。タイトルの影響かもしれない。あるいは、ことばの運動というか、動きが、いわゆる「意識の流れ」のように思えるからかもしれない。
 次の部分が、とても好きだ。

岩山をつきぬけたトンネルの道へはいる前
「とらべ」という木が枝を崖からたらしていたのを
実のついた小枝の先を折つて
そのみどり色の梅のような固い実を割つてみた
ペルシャのじゅうたんのように赤い
種子(たね)がたくさん、心(しん)のところにひそんでいた
暗いところに幸福に住んでいた
かわいい生命をおどろかしたことは
たいへん気の毒に思つた
そんなさびしい自然の秘密をあばくものでない
その暗いところにいつまでも
かくれていたかつたのだろう

 「気の毒」。そして「さびしい」。あ、このことばは、こんなふうにして使うのか、と、こころがふるえる。 
 そのふたつのことばは「生命」とふかく結びついている。「生命」はいつでも「さびしい」。「さびしい」まま生きている。そこに美しさがあるのだから、それをあばいたりしてはいけないのだ。
 --ここには、西脇の、とても独特な「音楽」がある。
 それは、私がいままで何度か書いてきた「音」そのものの「音楽」とは別のものである。
 「音」のない「音楽」。沈黙の「音楽」。ことばにしてはいけない「音楽」。
 西脇は、ときどき、ことばにしてはいけないことをことばにしてしまう。
 それは武満徹が沈黙を音楽にしたのと似ているかもしれない。

 意識の流れ--と書いたが、あ、これは、ことばを捨てる動きなのだと思う。ことばを捨てるとき、そのことばの奥に隠れているものが、「とらべ」の固い実のなかの種のように姿をあらわす。
 ことばには、そういう動きもある。




西脇順三郎コレクション〈第3巻〉翻訳詩集―ヂオイス詩集 荒地/四つの四重奏曲(エリオット)・詩集(マラルメ)

慶應義塾大学出版会

このアイテムの詳細を見る