ことばと「事実」はどういう関係にあるのだろう。「事実」があって、それをつたえることばがある。「もの」があって、それに「名前」がある、それがことば。普通はそう考えるのだと思う。一方に「もの」とか「事実」があり、他方に「ことば」がある。それは一対一の関係にある。あるいは、その一対一の関係があってこそ、世界が成立する、--そう考えるのだと思う。
でも、ほんとうは違うかもしれない。
山口賀代子「はなれよ」のなかほど。
そのむらでわたしはひとりのせいねんにであった そのとき こんどくるまでにといってあずけてきたものがある それはきおくだったかもしれないし みらいだったかもしれない そのなにかわからないふたしかてものをうけとると せいねんはわたしにきたくをうながし みたくなったらいつでもおいでと いったようなきがするが そのようなことはいわなかったかせしれない きてはいけない と いわれたようなきもするが あれはえいえんにきてはいけないということであったのか それとも くるにははやい と いういみであったのか
ここには「事実」というものがない。「事実」というものが何なのかわからない。そして、ただことばだけがある。ことばが発せられるたびに、それらしい(?)事実が浮かび上がるが、すぐに次のことばでかき消される。
「事実」があって「ことば」があるのではない。「ことば」があって「事実」を呼び出しているのだ。どこから? ことばが生まれる「場」からである。
だが、ほんとうにそうか。
ほんとうに「ことば」は「事実」を呼び出すのか。そうではなくて、「ことば」は「事実」を隠しているのかもしれない。「事実」と向き合ってしまうと、何か、とんでもないことが起きる。とんでもないこと、というのは「わたし」がわたしではないらなくなるようなことがらである。そういうことを避けるために、「事実」を隠す道具として「ことば」がつかわれている。
もし、そうなら。
普通に考えられていること、「事実」をつたえるためにことばがある、という定義は、まったくの嘘になる。
なぜ、そんな嘘が必要なのか。
あれはえいえんにきてはいけないということであったのか それとも くるにははやい と いういみであったのか わからないまま おわれるようにやまをくだったが ほんとうは とおざかったのではなくすこしだけとおまわりをしながら いっぽ いっぽ はなれよにむかって あるいているのかもしれない
離れることが近づくこと。ここにある矛盾。たぶん、ことばとは矛盾したものなのだ。必ず矛盾してしまうのだ。何事かをいうこと、ことばは何事かを隠してしまう。同時にふたつ(複数)のことを言えない。世界には「複数」のことがらが存在するが、それを同時にはつたえられない。
「こころ」や「考え」になってしまうと、それはもっと複雑になる。それは「ひとつ」なのか「複数」なのかもわからない。「ひとつ」が複数に見えるのか、「複数」がひとつに見えるのか--そのことさえ、人間は知らない。
それでも、ことばをつかう。
言いたいことから離れていくのか、それともそれは近づいていくことになるのか。わかるのは、そういうことがらは、いつでも「それとも」を用意しているということである。「それとも」は「事実」をあばきながら「事実」を隠す。「事実」は「それとも」しかない、とでもいうように。
あれはえいえんにきてはいけないということであったのか それとも くるにははやい と いういみであったのか わからないまま
わからないまま、どこまでことばを動かしていけるか。--山口が試みていることは、そういうことだと思う。この「わからないまま」、「それとも」の内部へ入っていくことばの運動は、とても魅力的である。ただ、山口の書いていることは、ちょっと短い。もっともっと長々と書いて、何が書きたかったのか、山口自身がわからなくなるまで動いていくと、ことばにもっと手触りが出てくると思う。その「手触り」が「事実」にかわってくると思う。
*
新井啓子「舟」は「ことば」というかわりに、ほかの「もの」をつかって、どっちがほんとう? どっちが先? という世界を描き出す。夜を進む舟を描いているのだが、その3、4連目。
舟の中に積まれているのは 海を渡る鳥の風切り羽 飛
び疲れた鳥は 舳先にとまり羽を繕う くちばしで整え
られ すり抜けて 船主から船尾へ 重なり合って 羽
は舟に落ちる
鳥は闇の間で小さく身震いをする 白く明るい時の隙間
に 飛んでゆく支度をする 一本一本繕って するりと
羽を 落としてくると 自分の体温を確かめる 鳥は思
う 今夜はどこまで飛んで行けるのだろう
詩のテーマ(主語?)は「舟」なのか「鳥」なのか、わからなくなる。というより、舟が鳥になり、鳥になることが舟であることなのだ、という「矛盾」をのせて、夜を進むことになる。「鳥」が舟を隠してしまうのか、隠されることで舟は舟でありつづけることができるのか。
わからない。そして、わからないからこそ、それは詩なのだ、と私は思う。
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