誰も書かなかった西脇順三郎(95) | 詩はどこにあるか

詩はどこにあるか

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 「ナラ」。この「ナラ」は何だろう。西脇は地名をよくカタカナで書くから「奈良」なのかもしれない。

ポンペイの女郎屋の入口の
狼のように耳が立つた
まつ黒い犬がほえる

 この書き出しの「犬」はほんとうに犬? 鹿を、そんなふうに書いて、遊んでいるだけなのかもしれない。
 西脇は有名詩人というよりも、日本の代表的な詩人だから、そういう人に対して「遊んでいる」というようなことを書くときっと反論が返ってくると思うのだけれど、いいじゃないか、誰だって遊んだって、と私は思う。
 「意味」とか「思想」とかは関係なく、ただことばで遊びたいから遊んでみる--そういうことだって詩の重要な要素である。「ポンペイの女郎屋の入口」も「奈良の都の入口」も、かわりはないのだ。ある場所、その場所が喚起するものが似ているか、似ていないか--よくわからない。よくわからないから、まあ、その変なものを(ことば)を動かしてみる。それが、どこまで動いていくか。その「動き」そのものが、詩であるかもしれない。

 私は、この詩は「奈良」を「ナラ」と書いたことからはじまる奇妙な音楽として読みたい。そう、読んでいる。そして、おもしろいと感じているのは、「ナラ」と「ポンペイ」と関係があるかないかわからないけれど(わからないからこそ?)、次の部分である。

この悲しい記念
この美しい管を通る恋心(れんしん)は

 「この」の繰り返し。「しい」の繰り返し。「きねん」「れんしん」の韻の踏み方。「恋心」にわざわざ「れんしん」とルビをふって、変な音にしてしまう遊び。
 特に気に入っているのが「この」の繰り返し。
 それはあとにも出てくる。

この価値のない牧神笛
この朱色の金属
この考え及ばざる空間
このブリキの管を通す

 4回「この」が繰り返される。最後にも、「この」が登場する。

ただこのブリキの空間とこの朱色
との関係が激烈なるためだ。

 「この」が最後に「との」になっている。
 この瞬間の、変なおもしろさ。

 西脇の詩が私はとても好きである。そして、その好きの理由は「音楽」にあるのだが、その音楽は「音」であると同時に「書きことば」と何か関係があるかもしれない、とも、最近、急に思うようになったのだ。
 最終行の「との」は、学校教科書文法に従えば(つまり、「意味」「内容」を正確に伝えるということばの働きを重視すれば)、とても奇妙なつかい方である。行の冒頭に「との」があるのは変である。その「との」は、前の行の「朱色」につながる形で「朱色との」と書かれるべきものである。それを西脇は、あえて、わけて(分離させて)書いている。
 その「書くこと」から、音楽がはじまっている。

 それは「奈良」を「ナラ」と書くことからもはじまる「音楽」につながっている。「音楽」は「音」だけではなく、書かれる「文字」によってもはじまる。--そのことを、ふいに感じた。



アムバルワリア―旅人かへらず (講談社文芸文庫)
西脇 順三郎
講談社

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