石峰意佐雄「無闇男」 | 詩はどこにあるか

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石峰意佐雄「無闇男」(「解纜」143 、2009年12月18日発行)

 石峰意佐雄は「男たち」シリーズを書いている。その26が「無闇男」。「解纜」にはほかの作品も掲載されている。テーマは、しかし、「男」よりも書くという行為そのものである。
 「無闇男」の書き出し。

 かれは存在するのか、したのか、それともしうるのか。じつにしんどいことだが、ほとんど証明不能のことを語ることがそもそもできるのだろうか。

 ここには「否定」だけがある。次々に襲いかかる「否定」だけがある。そして、「否定」とは「不可能性」のことである。ある「こと」(存在と言うより、こと、であると、私は直感的に思う)を想定する。そして、それを「否定」し、さらにその「否定」そのものを「可能」「不可能」の二者択一にかける。それは、そして、「可能」をひきだすためではなく、「不可能」と断定するためである。
 ことばがそんなふうに、次々に否定し、不可能であるという「答え」に向かって動くとき、そこには「何」が存在するのか。どんな「こと」が存在するのか。何も存在しない、どんな「こと」も存在しない。ことばが動いたという記憶(?)、あるいは意識が残るだけである。
 それは、次のような「比喩」として語られる。

 かれは、よこたわったまま遥かなすそのほうをけり出すとその余波が、こちらに及んでくる、ようにしてかれじしんの体感としてわずかに、存在した証しがあるだけだ。

 この文章は、とても奇妙である。「主語」が奇妙にねじれる。
 「第一の主語=かれ」は「すそをけり出す」(述語)。「第二の主語=裾をけり出した足(?)、あるいはけり出された裾」が、「余波」を引き起こす(述語)。「第三の主語=余波」がこちらに「及んでくる」(述語)。
 そのあとは?

ようにしてかれじしんの体感としてわずかに、

 「主語」は? 「主語」はどこへ消えたのか。「かれじしんの体感」というのは、だれが感じる「体感」? かれが感じる? 私(石峰、あるいは読者)? わからないまま、「わずかに」は、次の、

存在した証しがあるだけだ。

 にかかっていく。けれど、その「わずかに」は「わずかに存在した」なのか、「存在した証が「わずかに」あるだけなのか、見当がつかない。そして、その見当のつかなさをごまかす(?)ようにして「第四の主語=(存在した)証し」が「ある」(述語)。
 最初の1行で、「かれ」という「主語」が措定され、それからすぐに「存在するのか」「存在したのか」「存在し得たのか」「存在しうるのか」という「否定」と「不可能」の「述語」によってかき消されたように、ここでも「主語」がかき消されていく。
 「存在した証しがある」と石峰は書いているが、何が存在したのか--そのほんとうの「主語」はとっくの昔に否定されて、主語をめぐって動いたことばしか残っていない。書かれたことばしか残っていない。
 そして、その書かれたことばを決定的に特徴づけるのが

ようにして

 と、唐突に挿入されたことばである。
 「ようにして」からはじまる文節は、それまでの文章「かれは、よこたわったまま遥かなすそのほうをけり出すとその余波が、こちらに及んでくる」と、それ以後の文章「存在した証しがあるだけだ。」を分断し、同時に接続する。強引に、ふいの「比喩(のよう)」と、どの述語を修飾するかわからない副詞(わずかに)の粘着力で。
 分断し、接続する(接着する)というのは、矛盾した行為だが、矛盾しているからこそ、そこに「思想」がある。「肉体」がある。
 「肉体」があるから「体感」がある。
 だれが感じるのか、「主語」があいまいなまま、「かれじしんの体感」が残る。ほうり出される。その「体感」が「思想」である。

 書く--ことばの運動。書かれたことばの運動というのは、その「かれじしんの体感」のように、何かを分断し、同時に接着させるものなのだ。書くと言うことは、そういうことなのだ。

 何かが存在し、ある「こと」が存在し、それをことばで置き直すのではない。ことばは「存在」や「こと」を伝えるのではない。ことばが何かを伝えるとしたら、そのことばが何かを切断し、同時にそこに別なものを接着しようとする運動、その「感じ(体感)」を伝えるだけなのだ。

 あ、何か。
 --ことばがかってにスピードをあげて暴走する。自分で自分のことばについていけなくなる。
 ちょっと別な書き方をしてみる。

 「かれ」を「ことば」と置き換えてみる。そうすると、私が書きたいと思っていること、あるいはことばが私を置き去りにしたまま書こうとしていることが、別な形で見えてくる。

 ことばは存在するのか、したのか、しえたのか、そもそもしうるのか。

 ことばで書きながら、こういう質問をすることは自己矛盾かもしれない。その「自己矛盾」を少しだけゆさぶるために、「ことば=存在(もの)」あるいは「ことば=意味」は存在するか……と考えてみるとどうだろう。ことばは存在(もの)と同じ(あるいは等価)なのか。ことばは「意味」なのか。
 そうではないのではないだろうか。
 ことばが動く(すそをけり出す)。「もの」に向かって動く、意味に向かって動く。そうすると、そこにはことばによってつなぎとめられるものがある一方、そのつなぎとめによって振り捨てられるものもある。「かれは、よこたわったまま……」という段落で石峰が書いていることと逆の順序になってしまうが、接続と(接着と)同時に、なにかが分断される。

 「存在(もの)=ことば」「意味=ことば」という形でのことばは、存在するのか、したのか、しえたのか、しうるのか。

 石峰の「思想」はそれを中心に蠢いている。動き回る。
 それは確かに、

ほとんど証明不能のことを語ることがそもそもできるのだろうか。

 という疑問を呼び起こす。「ことば」が「ことば」について語ることができるのか。そこに「客観性」はありうるのか。「客観的な思考」として、それは有効なのか。疑問だけが、有効な何かかもしれない。
 そして、「ようにしてかれじしんの体感としてわずかに」という、わかったような、わからないような「比喩」が残される。
 「比喩」というものは、とてもおもしろい存在だ。「比喩」のことばの特徴は、「存在(もの)=ことば」「意味=ことば」をどこかで否定している。つまり……。(と、書いていいのかな?)
 「比喩」が存在するためには、「比喩」が語るものがその対象そのものであってはならない。「きみは花のように美しい」という比喩がなりたつためには、「きみ」は「花」であってはならない。そこに、一種の「否定」がある。「きみ」が「花ではない」(否定)。だからこそ「花」であると強引に他のものを接続する(接着させる、他のものでのっとる)とき、「きみ」は「きみ」を超越し、絶対的な「美」になる。
 比喩--とは、存在を否定し、超越し、絶対的な何かになってしまう運動なのだ。

 比喩の中にこそ、ことばの運動のすべてがある。のかもしれない。存在を語りながら、存在を超越する運動。詩。
 ことばは「意味」をもたない。ことばは、過激に動くことで「それまでの意味」を分断(破壊)し、別の「意味」を生み出すのだ。いままで、接続、ということばをつかってきたが、それはたぶん、間違いだ。別の「意味」を結びつけるのではなく、それまで存在しなかった「意味」を生み出していく。そこに展開するものが「それまでの意味」ではなく、生み出された「あたらしい意味」であるがゆえに、だれにもその「意味」はわからない。書いている作者にも、読んでいる読者にもわからない。「体感」のようなものがあるだけで、「意味」はだれにもわからない。運動していることば自身にもわからないかもしれない。

 石峰が書こうとしているのは、そういう「ことばの運動」そのものだ。ことばはなんのためにあるかという問いかけそのものだ。何を書き得るか--それを、ことば自身の運動にゆだねて、石峰はことばを書いている。
 そして、ことばに身をゆだねるために、ことばそのものを「過去」からまず解放する。その方法として、「かれは存在するのか、したのか、しえたのか。そもそもしうるのか。」というような、「否定」と「不可能」を刻印することからはじめる。すべてをうたがい、すべての根拠をとりはらう。そこからことばは「自由」に動きはじめる。



塋域―詩集
石峰 意佐雄
詩学社

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