柏木勇一『たとえば苦悶する牡蠣のように』の巻頭の作品「ここにはむかし樹木があった」は印象的な書き出しである。
だれでもそう語ることができる
ここにむかし樹木があった
だれもが樹木への思い出があるから
ここにむかし「私の」一本の樹木があった
僕はこうも語れる
ここにむかし柿の木が一本あった
これは「ひとり」であることの宣言である。「だれでも」は不特定多数のあらわすが、人間はけっして不特定多数ではない。それぞれ「ひとり」である。「だれでも」であるからこそ「ひとり」である。そして「ひとり」にはそれぞれ「一本の木」があるように、それぞれ「ひとつ」のものがある。
柏木が問題にしている「ひとつ」は「一本の柿の木」、あるいは何か別の「ひとつ」ではなく、実は「ひとり」である。戦死した父--たったひとりの父、父という「ひとり」の人間。戦争は「ひとり」を「ひとり」として見ない。だからこそ、生き残っている「ひとり」の人間として、戦争で死んでしまった「ひとり」の父のことを書く。
巻頭の詩は、次のように書くことも(書き直すことも)できるのだ。
だれでもそう語ることができる
ここにむかし父がいた
だれもが父への思い出があるから
ここにむかし「私の」たったひとりの父がいた
僕はこうも語れる
ここにむかし僕の父「○○」がいた
(○○には、父の「名前」が入る)
権力は(あるいは国家は)、「ひとりひとり」を「だれも」という不特定多数にしてしまうが、「だれも」という存在はいない。ひとりひとりに「名前」がある。「名前」があって、「ひとりひとり」である。
「そこに眠りについたもの」には、次のことばがある。
例えば
葬りさられた夥しい死者たちの
その夥しい数ではない
ひとりひとりの
空に向けられた涙の来歴を
(略)
すべてはそこに眠りついて
いまなお存在しているもの
わたくしであり あなたでもあり あの人かもしれない
「ひとりひとり」とは「わたくし」であり「あなた」であり「あの人」である。それはひとまとめにはできない。かならず「ひとり」なのである。
この「ひとり」の感覚は、人間だけではなく、あらゆる存在に向けられる。
枯葉に紛れて質問状が届く
奇跡と悪夢の違いについて述べよ
意味を反芻する わたくしは牛
大地にひれ伏して考えた
大地の底から聞こえてくる奇跡の心音
大地が振動してくる悪夢の予感
瞬間
大地を蹴り上げる わたくしは馬
大空へ逃亡する わたくしは鳥
地層の歪みに身をまかせる わたくしは蛇
振り向けば一本の木
すべての葉を落として立つ
何もなかった大地に一本の裸木が空間を作った
消滅という悪夢を追いはらった一本の木の奇跡
枝と枝の間を行き来しながら緑のざわめきを約束する
わたくしは虫
わたしくは蕾
わたくしは蝶
「人間」だけが存在するのではない。「いのち」が存在する。牛、馬、鳥、蛇、虫、蕾、蝶。すべては「ひとり」なのである。この、「人間」という「枠」を超越して「いのち」そのものに結びつく力が柏木の思想である。「肉体」である。
この詩には、そういう思想と深く関係する美しい1行がある。
何もなかった大地に一本の裸木が空間を作った
一本の木が「空間を作った」。「空間」は関係でもある。関係というのは「ひとり」(ひとつ)では存在し得ない。かならず相手(他者)が必要である。他者と出会い、それぞれが「ひとり」のまま生きる。そのとき、その「ひとり」と「ひとり」の間に「ひろがり」が生まれる。それが「空間」。そして、その「空間」のなかへ「わたくし」はあるときは牛になり、あるときは馬になり、蛇になり、虫になり、出て行く。「いのち」の生々しい形としてあふれていく。--そうやって、世界はできあがっている。その世界の「証人」になる、と宣言しているのが、この詩である。
そして、その「証人」が告発しようとしているのは「戦争」である。たった「ひとり」の「父」から「父の名」を剥奪し「だれでも」という不特定多数として不当な扱いをする「戦争」である。
「わたしは幸せな男だ」の「幸せ」は、もちろん反語である。
わたしの中にはいつも戦争があり
わたしの中にはいつも死者がいるから
わたしはいつも忙しい
こうしている間にも私の爪の先から羽虫が湧き出し
わたしの中の死者が目覚めようとしているから
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