谷川俊太郎「電光掲示板のための詩」 | 詩はどこにあるか

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谷川俊太郎「電光掲示板のための詩」(「現代詩手帖」2010年01月号)

 谷川俊太郎「電光掲示板のための詩」は横書きと縦書きの部分から構成されている。横書きは横に流れる電光掲示板、縦書きは縦に流れる電光掲示板のための作品ということだろう。
 この詩には不思議な印象がある。
 谷川には、何を書くか、そのことが決まっていない。決まっていない段階で、谷川はことばを書きはじめる。--最近の谷川の詩を読んでいると、特に、そういう感じがする。こういうことを、こういう順序でこんなふうに書いて、結論はこれこれ……ということは決まっていない。けれども書きはじめる。
 どうなるか。
 書きはじめたことばがことばを呼び寄せる。ことばのなかの「声」が何かにぶつかり、そこから「声」が跳ね返ってくる。それは最初からそこにある「声」なのだが、それが最初から見える(聞こえる)わけではない。無音の、透明な、「声」。それが、谷川が発したことばによって呼び覚まされ、動きはじめる。
 そういうことばの運動がある。

 横書きの詩。その書き出し。

コトバが文字になっている 声をもっているはずなのに コトバは音を失って(それとも意図的に黙って)おとなしく流れていく

 「声をもっているはずなのに」の「声」ということばが痛切に響いてくる。ことばは「声」であるはずだ、という認識が谷川にはあるのだと思う。その「声」をもとめる「声」が、「声」をもたずに文字となって流れていくことばに対して「コトバが文字になっている」と悲痛な「声」をあげる。
 それに呼応するように、ことばが動きはじめる。
 「コトバが文字になっている」ということばを書いたとき、「声をもっているはずなのに コトバは音を失って(それとも意図的に黙って)おとなしく流れていく」ということばはまだ存在していなかった。「コトバが文字になっている」ということば(声)を聞きとって、あるいはそのことば(声)にぶつかって、隠れていた「声」が動きはじめたのである。
 これを、「声」ではなく、谷川が書いているように「コトバ」といってしまってもいいのだろうけれど、私には、なぜか「声」と言い換えた方がぴったりくる。私の感性には、というだけの問題かもしれないが、「声」と意識すると「文字だけになっている」の悲しみがわかるような気がする。
 「声をもっているはずなのに」と「声」は一回つかわれるだけだが、それ以後のことばは「文字」で書かれているけれど、私には「文字」ではなく、「声」に聞こえる--という不思議な(不気味な)ことも、私には起きる。書かれた文字を読んでいる。「文字だけになっている 声をもっているはずなのに」ということばのなかに、悲しい悲しい「声」があるために、それ以後のすべてのことばが「声」になっている聞こえてくる。

 だが、その「声」を聞きながら、何を書いていいか谷川はわからない。わかっていないと思う。わかっていないから、わかろうとしている。耳をすまして、ことばの「声」を聞き、それを「文字」に置き換えている。
 ことばのなかの「声」をさぐっている。
 さぐっているから、つまり書くことが最初から決まっていて、それを書いているわけではないから、「声」は何をどういっていいかわからず、とぎれる。沈黙することがある。その沈黙は、ただことばを発しないということではない、と思う。自分の「声」を封じ、自分の発した「声」に呼応する「声」が返ってくるのを待っているのだ。近くからかえって来ることもあれば遠くからかえって来ることもある。思いもかけないところからかえってくることもある。そういうとぎれとぎれの「間」を空白ではさんで、「正直に」詩はつづく。(この「正直」が私は、とても好きである。)

この間も私がつくっているんじゃないんです 何ものかに私はプログラムされている

 この1行のなかの「プログラム」は、電光掲示板そのものの文字表示のプログラムをさしているけれど、もしかすると「声」(ことば)というものの存在そのもののプログラムをさしているかもしれない。
 ことば、声は、どこかに最初から、どこかに存在する。それが、たとえば人の「声」にぶつかって反応し、聞こえてくる。その「反応のプログラム」。そういうものが、どこかにあるかもしれない。谷川は(--詩のなかの、「私」は)、「何ものか」に「プログラムされている」。谷川が(電光掲示板が)、「間」を含めた詩を作っているのではなく、「何ものか」が谷川を利用して(?)詩の形にことばを整えている。谷川は、その「声」の変化を聞き取り、それを書いている。
 谷川の「正直」は、何か人間を超えた「正直」につながっている。
 「正直」がつながってしまうと、最初は書くことがなかったはずなのに「声」が次々に押し寄せてきて、身動きがとれなくなってしまう。「声」に「声」が反応して、合唱になってしまう。

すべてがコトバで語られるから コトバはときどき自己嫌悪におちいってしまう 無名の 無言の存在に憧れる とこれもコトバで言うしかないんです ああ もう黙りたい 黙っていたい だれか止めてください コトバを止めてくれ

 「正直」は止めようがない。この「プログラム」は終わらないのだ。終わりがないのだ。「声」はかならずぶつかり、それは反響し、別の「音」(声)を出してしまうのだ。

 --と要約してしまうと、そこに「意味」が生まれ、なんだ、谷川には書きたいことがあったではないか、ということになってしまうかもしれないけれど。(まあ、それは、ことばがいきついてしまう「結論」といえば「結論」であって、……。)

 私の印象は、ちょっと違う。
 そういう「結論」は「結論」としておいておいて、この最後に登場する「黙っていたい」ということば。そのことについて書いておきたい。

 この作品の最初に「声」ということばがあった。それは次々に「声」とぶつかり、さまざまな「声」を引き出してきたのだけれど、それはずーっと「文字」として書かれていた。だから、ほんとうは「もう書きたくない」でもいいはずである。ところが谷川は「もう書きたくない」とは絶対に書かない、と私は思う。
 谷川はいつでも「声」を聞いているのだ。
 もし谷川が人間を超える「正直」と直面し、谷川自身が「正直」になったとき、そのとき谷川は「ことば」を聞いているのではない。あくまで「声」を聞いているのだ。ことばには最初から「意味」があるかもしれない。けれど「声」には最初は「意味」はない。ただ「肉体」を通り抜けてくる「音」、「肉体」を響かせる「音」だけである。「音」が谷川の「肉体」を通ることで、「声」になる。その「声」が他人と共有されるとき「ことば」になる。ことばは「文字」にもなるけれど、それはほんとう「声」。「声」に戻さなければならない。

 「声」の苦痛を聞きながら、谷川は「声」を響かせている。
                                  (つづく)


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