野樹かずみ・河津聖恵『天秤』は短歌(野樹かずみ)と詩(河津聖恵)のハイブリッド作品。すでに同じ形式の『わたしたちの路地』(澪標発行)がある。
今回ふたりが出発点にしているのはヴェイユである。ヴェイユに触れながら、いかに「私」から脱出して「私以外の存在」になるか。そういうことが試みられている。
容赦なく生産ラインから不良品とわがたましいを取り除くかな
これはヴェイユが彼女自身の思想を鍛えるために工場で働いているときの姿を想像して書いたものだろう。最初にこの歌に強くひかれた。「不良品と」の「と」に揺さぶられた。「意味」としては「不良品とわがたましい」と続けて読み、「と」は並列のことばと受け取るべきなのだろう。
私は、そこから一歩進んで(?)、いつものように「誤読」したいのだ。
「と」を並列、列挙のための助詞ではなく、「として」が省略されたかたちの「と」であると。「不良品としてわがたましい」を取り除く。そこで「取り除く」と書かれているのは「不良品」であるよりも「わがたましい」なのだと。生産ラインでは、まず「不良品」といえば「たましい」なのだ。人間の思いなのだ。
このとき、少しおもしろいことが起きる。
「取り除く」の主語。それはなんだろう。「不良品」を取り除くのは「わたし」(女工)。「わがたましい」を取り除くのも、生産に従事する「わたし」かもしれない。けれど「生産ライン」そのものが主語になって、「わがたましい」を取り除く。資本主義の工場、生産の合理性だけを考えている工場では「不良品」はもちろんいらないが、「たましい」はいらない。だから、取り除く。
そして、人間の「たましい」を取り除くことこそが「生産ライン」の本質である--という「定義」が成立するとき、その「定義」の奥から、もう一度「わたし」が主語になって立ち上がってくる。「生産ライン」はそういうことを「主張」しない。「生産ライン」が「たましい」を取り除く、「生産ライン」によってたましい」が取り除かれた--と主張するのは、そこで働いている「人間」である。
どのような「主張」(思想)でも、「主語」は簡単に(といっていいかどうかは、ほんとうは問題だけれど)入れ替わってしまう。
ことばには「主語」を自在に交代させることで、ことばの奥へ奥へと私たちを導いていくものかもしれない。
「主語」の入れ換えとは、「私」が「私以外のもの」になることでもある。ヴェイユは女工として「生産ライン」で働く。そのとき「思想家」ヴェイユは「思想以外のもの」になる。つまり「女工」になる。「わがたましい」を取り除き、「生産ライン」で働くことが「私」から出て行くことだとすると、その「私」は「たましい」のかわりに何を手にいれるのだろうか。
ちいさな魚の様に跳ねた部品を
機械は夜のセーヌのように神秘的に吸い込んでいった
<わたし>は涙のようにふくらんでいく 赤いひなげしが揺れはじめる
さっきまで一時間四フラン という女たちの悲しみに指を浸し
冷たく受肉しようと息をつめていた体だ
「受肉」。「たましい」のかわりに「悲しみ」を「肉体」として受け入れる。他人の「肉体」を手にいれる。
これは、とてもおもしろいテーマである。
人間は「精神(たましいも、その一種だろうか)」を捨てたり受け入れたりすることはできても、他人の「肉体」を受け入れることはできない。それが一般的な考え方だろう。どんな精神(状態)になってしまおうと、「私」という「肉体」はかわらない。「私」を識別するのは精神であるよりも、まず「肉体」なのだ。
しかし、河津によれば、ヴェイユが試みているのは、ヴェイユ自身の「肉体」のなかに「女工の肉体」を取り入れ、「女工」になってしまうことなのだ。
「たましい」を取り除き、「肉体」を受け入れる。「受肉」する。そして、その「肉体」が、あらゆるものを「定義」しなおす。すべての存在、すべての運動にことばをあたえなおす。世界の再分節。
--野樹と河津は、そういうことろから、ことばを動かしはじめている。
この運動は、しだいに過激になる。
ヴェイユは「私」から脱出し、「私以外のもの」になろうとした。「他者」を「受肉」し、「他者」としてことばを再発見し、そのことばで世界を再分節する。(この再分節とを、再構築、脱構築とおなじ意味だと私はナントカ思想をかってに「誤読」している。--承知の上で書いているのだから、適当に批判してくださいね。)
野樹と河津は「私」から出て行く(脱出する)だけではなく、「私たち」から脱出する。それは野樹と河津がふたりという複数から脱出するというだけの意味ではない。野樹と河津は「ふたり」を脱出するだけではなく、「ふたり以上」の存在そのものから脱出する。
アンティゴネーやエレクトラー、魔女、奴隷、キリスト、日本兵、ジャパユキさん、戦後民主主義、オウム真理教、地下鉄サリン……。「私」がもっていた「たましい」(既成概念と言い換えてみようか)を捨て去って、さまざまな人間の「肉体」を受け入れる。「受肉」する。そうすることは、ふたりは「私たち」から脱出し、「私たち以外の存在」になろうとする。
それは別なことばで言えば「歴史」の見直しであり、「歴史」に対する異議申し立てでもある。新しいことば、新たに「受肉」したことばによって、世界をとらえなおすということでもある。
また別なことばで言えば「私たち」を「正直」に引き戻す、「私たち」を「正直」に生きなおさせるということでもある。
そして、いま書いたことと矛盾した形でしかいえないのだが、ふたりは「私たち」から脱出し、「私たち以外のもの」になるということで、ほんとうは「私」にもどるのだ。「私」という「正直」にもどるのだ。
「私」が「私以外の存在」になることは個人的な問題だが、それを拡大し、「私たち」を「私たち以外の存在」として再生させようとしている。そして、そのとき「再生」の対象となっているのは、実は「人間」ではなく、「ことば」である。「ことば」が「正直」になるのだ。
「私のことば」を再生させるのはもちろんだが、「私たちのことば」を再生させたい。「私たちのことば」を「正直」にしないかぎり「私のことば」は「正直」にはならない。--その強い欲望が野樹と河津を突き動かしている。そうすることがヴェイユを引き継ぐことだと明確に叫んでいる。
最後に描写されたヴェイユの「肖像」は野樹と河津の「肖像」でもある。
ベレー帽に丸めがねの彼女は
死んでなおいのちの木を護りつづけている
ほんとうに生きるために
つらい不幸の重みにおしつぶされることで
他者を受肉するために
誤解や蔑み 運命や戦争の猛獣に身をさらし
アオギリの勇気の姿でみずからはりつけにされたひと
世界の罪さえもあわれみ尽くし
へだたりというへだたりを燃やす透きとおったまなざしの枝を
空にはりめぐらせ
まったき木の真空(うろ)となってひざまづく
おびえる私たちの闇を卵のように抱き
ふたたび励ますのだ
途方もない災厄のあと途方もなく種をこぼしつづけるアオギリのように生きよ
途方もない不幸のあと途方もなく<わたしたち>の破片をこぼして生き尽くせ
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