セアドー・レトキーを読むのは初めてである。けれども、どこか懐かしい感じがする。訳者の松田幸雄は「あとがき」で、
レトキーの詩は日本人によく理解できると私は思う。なぜなら、彼の感性が日本人の感性によく似ているからである。思うに、私たちの感性には、陰に陽に地霊や祖霊への思いが伝習的に潜在している。彼はそういう意味の言葉は使っていないが、場所に触れたときなどの詩からは、なんとくそういうものを感じさせるのである。
と、書いている。
私は「地霊」「祖霊」というものは感じたことがないので、ちょっと松田の書いていることはわかりにくいのだが、確かに日本人の感性と似たところがあるとは思う。自然との向き合い方、自然のなかから「感覚(感情)」つむぎだしていく方向性が、どこか似ている。アメリカと日本だから、取り上げられる対象は違う。けれども、対象と向き合いながら、そこから取り出してくるものが似ている。
「薔薇」の「3」の部分の書き出し。
何を私たちに告げるのか、音と静寂は?
私はこの静寂のなかにアメリカの音を思う。
この2行は、私には、芭蕉の「閑かさや岩にしみいる蝉の声」を思い起こさせる。「静寂」(閑かさ)と「音」(蝉の声)の対比。音があれば静寂ではないのだが、音があればこそ静寂だという感覚。共通するのは、そのときの「静寂」(閑かさ)は「人間の思い」を拒絶している静寂である点だ。こころが騒いでいないのだ。それが「静寂」。この感覚が、こういう感覚を自然から引き出してくるところが、日本人の感性と似ている、と思う。もちろん日本人の感性といっても、この場合、それは芭蕉が作り上げた感性だけれど……。
セアドー・レトキーの詩は次のように続いていく。
トゥームストン川の堤に、自分の言いたいことを言う風のハープ、
あの気楽な小鳥、独り囀る鶇の声、
一声鳴いて私から逃げた千鳥、
庭の隅にぼさぼさに茂ったライラックの樹間で
高笑いを真似るネコマネドリの声、
(略)
耳を刺す針のようなあの細い声の鳴き止まぬ蝉、
「閑かさや岩にしみいる蝉の声」ではないけれど、ここにも「蝉」が出てくる。芭蕉は単独の音をもってきて「静寂」と対比させるのに対し、セアドー・レトキーはさまざまな音をもってきて「静寂」と対比させる。そういう方法論の違いはあるけれど、自然の音と対比させるところが共通点としてあると思う。
そして、このときの「自然」とは、セアドー・レトキーにとって、たぶん「郷愁」なのだ。それは「前に起こったこと」なのだ。「前に起こったこと」というのは、基本的にはセアドー・レトキーの「故郷」を指すが、それは一地域に限定されない。あらゆる場が「故郷」となり、「前に起こったこと」を指し示してくれる。
詩のつづき。
ダコタ州のドラム缶のまわりにカチカチあたる雪の音、
ミシガン州の冬の風に鳴る電話線のかん高い金属音、
セアドー・レトキーはいつでも、「前に起こったこと」を探している。新しいものではなく、「前に起こったこと」を探し、それと自分を結びつけ、そこで自分の思想(感情・感性)を作り上げている。常に「前に起こったこと」を土台にする--そこに、たぶんセアドー・レトキーの「正直」の基本がある。
そして、「前に起こったこと」のいちばん代表的なものが「自然」なのだ。風や小鳥の声。樹木。雪。そういうものはセアドー・レトキーが生まれる前から存在する。セアドー・レトキーが生まれる「前に起こったこと」、そして「いま」も起きていて、「未来(これから先)」も起きつづけること。そういう「普遍」と自分を対比させながら、そこにあるものを超える存在に触れようとする(アメリカのさまざまな音という事実に触れながら、音を超える「静寂」に達する感性)--その姿勢がセアドー・レトキーの「正直」の本質なのである。
こういう「姿勢」(正直さのあり方)は、必然的に「繰り返し」を含む。それが、またセアドー・レトキーの特徴だと思う。
「川のエピソード」という作品は初期のころのものだが、私はとても気に入っている。その全行。
足指の下で弧を描いていた貝が、
沈泥に渦巻きを起こして
ぼくの膝の周りに小波を立てた。
ぼくが時間に負うているものが何であろうと
ぼくという人間のなかで動きをゆるめた。
海水がぼくの血管のなかに上がってきて、
ぼくが温めてきたいろんな要素が
崩れて、流れ去った。
そこでぼくは思い出した、以前そこにいたことがあったと、
あの花崗岩の粉化したあの冷たい泥のなかに、
あの暗い闇のなかに、あの流れる水のなかに。
この詩でも「以前そこにいたことがあった」と「前に起こったこと」に類似のことばが出てくる。セアドー・レトキーはここでは「自己」を「人間以前のいのち」そのものにまで引き戻して「前」という時間をとらえている。「人間」を「いきもの」にまで還元し「前」という時間をとらえている。
「前」「いま」「これから」。そういう「時間」が重なり合い「永遠」になるとき、「ぼく」という「固体」は「ぼく」を超える。「人間」という「枠」を超え、「いのち」そのものと結びつく。
「正直」はそこまで純粋なものである。
そういう「正直」にとって、「ぼく」が「女」になることなど、とても簡単なことだ。男も女も同じ人間である。
「第四の黙想」の「1」の書き出し。
あたしはつねに、孤独を求める女で、
自分流に永遠の目的を探し求めていた。
野原の縁で純粋な機会を待ち、
砂の渚に黙って立っていたり、緑の堤を歩いたりして、
小さな流れの曲折を知った。さながら、
ゆるやかな流れに乗ってのんびり浮かんでいる木っ端や殻、
あたしのなかにまだ残る夜の雨の一滴、
皺状の岩の割れ目に溜まったわずかな水、
川とともに光り流れては、
漣となって浮きつ沈みつ、
陽光をはね返している淵の水だった。
川底の「いのち」は、ここでは「水」という「いのち」になっている。男である「ぼく」が泥のなかの「いのち」なら、女はその「いのち」を育てる「水」という「いのち」というわけだろう。
セアドー・レトキーの描く「水」(川、河口、海)はどれも美しいが、そこには「流れ」というものが詩人のひとつのテーマであることが反映されているかもしれない。「前に起こったこと」「いま起きていること」「これから起きること」。そういう「時間」の「流れ」の、そのまっただなかに「永遠」がある。そういうことを、たぶん詩人は故郷を捨てた(故郷から脱出した、出発した)旅のなかで見つけたのだと思う。
そして、その最初に見つけたことをいつまでもいつまでもしっかりと抱えて守っている。そこにこの詩人の「正直」がとても美しくあらわれていると思う。
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