向井由布子「履く人が一番輝く靴を探し当てたい」 | 詩はどこにあるか

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向井由布子「履く人が一番輝く靴を探し当てたい」(「読売新聞」2009年12月02日夕刊=西部版)

 読んだ瞬間、意味は分かるのになんだか奇妙、背中がむずむずすることばがある。映画「ゼロの焦点」の出演者が話す金沢弁、能登弁の鼻濁音なしのことばもそうだが、書きことばにもそういうものがある。
 向井由布子「履く人が一番輝く靴を探し当てたい」は靴店主・吉田恵さんを紹介した記事。事故でひざ下を失った吉田さんが、すばらしい義足に出会い、靴に目覚め、靴店を経営するにいたった経緯を書いている。タイトルになっているのは吉田さん自身のことばだ。

 「心地よさは当たり前。履く人が一番輝く靴を探し当てたいの」

 意味はわかる。こころもわかる。でも、何か変。
 どこが変か。私なら次のように言う。

 「履いた人が一番輝く靴を探し当てたい」

 「履く人」ではなく「履いた人」。たぶん、これから履くのだから「履いた」と過去形にするのはおかしい、ということなのかもしれない。
でも、そうかなあ。
 「履いた人が一番輝く靴を探し当てたい」というときの「履いた」は「過去形」ではないのではないかな。「履いた(状態の)時に」という「仮定形」から「状態の時に」を省略した形。西欧文体(フランス語やスペイン語など)でいえば「接続法」になるのではないか。日本語には「接続法」という概念はないようだけれど。

 あるいはこれは「九州弁」の一種かもしれない。
 あるとき本屋で「○○はありませんか」と聞いて「本屋に、ありませんかとは何事だ。ありますか、だろう」と叱られたことがある。びっくり。

 語感の問題だけれど、語感が大事――と私は思う。