福島敦子「空」の書き出しがとてもおもしろかった。
空が高くて泣いた
空が大きくて泣いた
泣いていたら疲れてくるので
疲れ果てるまで泣いた
破れたこころの穴にざわざわ水が押し寄せて
あふれ出した
しょっぱくてそれは
海の水だと気づいた
どうしてこんなときも海とつながっているの
「空」から「海」への移動が自然で、その自然であることが「どうして」と思わずにいられない不思議さ。このことばの動きには、まったく無理がない。無理がないのに、不思議にたどりつく。
たぶん。
「海の水だと気づいた」の「気づいた」がとても効果的なのだ。「気づいた」とき「気持ち」が少し動く。「泣いた」とき、泣いているときの「気持ち」が少し「泣く」から動いている。そして、その「動き」に押されて「どうして」という疑問に思うこころが動く。
この動きがあるから、次の展開も生まれる。
歩くとたぷんたぷん揺れて
海を運んでいるみたい
私が歩く
海が歩く
とてもいい感じだ。
私は、いま、悲しいことがあるわけではないが、泣きたいことがあるわけではないが、空を見上げながら、泣きながら歩いてみたい気持ちになる。歩くたびに、私の肉体のなかで海が「たぷんたぷん揺れて」、海を運んでいる感じ、海が歩いている感じを味わってみたい--そんなことを、唐突に思った。
*
石川和広「休息」は、ちょっと深刻そうにはじまる。深刻そうだけれど、そうでもないかもしれない、という矛盾した気持ちを浮かび上がらせてはじまる。あいまいだ。
生きていくのに休息なんてない
そう思っていたし、いまもどこかでそう思っている
「いまもどこかで」の「どこかで」という人ごとみたいな感じが、あいまいで、それがいいのかもしれない。
この詩の最後。「あいまい」にふさわしい終わり方だ。
「耳かきはなるべくしないほうがいいですか」
「なるべくじゃなくてもうしないほうがいいです」
「耳にも臓器があります。あなたの耳の中の皮膚は弱く炎症を起こしやすくなってます」
検索結果と同じことをいうからたぶん事実なんだと思う
耳にも臓器がある…
耳が死んではいけない 痛めつけてはいけない
当分耳かきは休むことにする
「検索結果」というのはグーグルの検索結果である。ふつうは、医者が行っていることと同じなんだからネットに書かれていることは事実なんだろう--と思うのだろうけれど、まあ、それは私のような古い人間で、いまの人は、ネットに書いてあることと同じだから医者の言っていることは事実と思うのかもしれない。
それは、まあ、どうでもいいのだけれど、書き出しにあった「休息」が「耳かき」を「休む」(しない)ことにに落ち着く、その落ち着き方というか--そんなことのためにことばを動かす、というのが、それこそ、どうでもいいような感じで、そのどうでもいいことが、「あいまい」に楽しい。
途中に「耳にも臓器がある」ということば(事実?)もふいに差し挟まれて。
そして、読み終わって、ふーんと思ったあと、「耳にも臓器がある」ということばが、なんといえばいいのだろう、ふと一休みするときの「ベンチ」のように感じられるのだ。奇妙な「事実」のたしかさというか、何かたしかなものが、ここで一休みしたらと誘っているような、不思議な安心感がある。
人は「休息」をするとき、何かたしかな「事実」を必要とする。それがなんであれ、「事実」でないと、たぶん、それによりかかって「休む」ということはできない。「自分のこころ」のどこかに寄りかかるのではなく、「肉体」の外にある「事実」、それに寄りかかって休むとき、「肉体」も「こころ」も、きっと一息つける。
そんなことを、こころの「どこかで」思った。
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