松尾真由美『装飾期、箱の中のひろやかな物語を』 | 詩はどこにあるか

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松尾真由美『装飾期、箱の中のひろやかな物語を』(私家版?)

 松尾真由美の詩は長いものが多いが、今回の詩集は1ページにおさまる短いもので構成されている。短い詩でも、松尾の特徴は変わらない。詩集のタイトルが象徴的だが、松尾のことばは、いつも常識的にはかけはなれたものを結びつけ、その結合の内部へとことばを動かしていく。詩集のタイトルにもどれば「箱の中」と「ひろやか」。常識的には「箱の中」は「広さ」とは相いれない。狭い。それを「広い」と想像力でねじまげていく。想像力とは、バシュラールの定義にしたがえば、事実をねじまげる力であるが、松尾は「常識」という「事実」をねじまげるのである。

 象徴的な作品。「element [要素]」の全行。

かろうじて
振り子の
世界を保っている
小舟のような揺らめきに
閲覧者のきびしいまなざし
もっと奥まで見つめてほしい
未知も既知もいくどもむすばれ
しろい檻に匿われ
すでに秘密のない身体
腐乱の手前の
果実の
蜜を
におやかに
食されること
瞬間の地理となる

 なかほどの「未知も既知もいくどもむすばれ」は正確に読みとろうとすると、よくわからない。「未知」は何と結ばれるのか。「既知」は何と結ばれるのか。文法的(?)にはというのも変だけれど、前後の行の関係からいえば、「身体」に「未知」「既知」がいくども結ばれ、その結果として「秘密」がなくなる。「未知」「既知」が「身体」をくまなく覆い隠す。それが「しろい檻」ということになるかもしれない。
 けれども。
 私は、「誤読」する。「身体」に結ばれるのではなく、「未知」と「既知」そのものが結ばれる。「未知」と「既知」が結ばれた結合の「奥」に「身体」が重なる。結合の「奥」を「身体」が解きほぐしていく。それは、「身体」を解きほぐすことににている。「身体」を解きほぐすことと、まったく同じだ。
 「未知」と「既知」、そして「身体」。それは、いわば同格になる。区別がつかない。どちらを優先(?)させて読んでも、同じところにたどりつく。「未知」と「既知」が「身体」に結びつき、「身体」を解きほぐしたのか、「未知」と「既知」の結びつきを「身体」が解きほぐしたら、それは「身体」の解きほぐしそのものになったのか。
 これは、区別しなくていいのだ、きっと。区別しないで、その区別できないものの、濃密な甘さ--蜜に酔えばいいのだ。

 この、解きほぐされた「身体」(「未知」と「既知」)は「瞬間の地理」になる。
 松尾の、この「瞬間の地理」ということばも、とてもおもしろい。「瞬間」は「時間」。「地理」は「空間」。そこには「箱の中のひろやか(さ)」と似た、不思議な拮抗と結びつきがある。
 相いれないものが、結びついて、何か区別できないものにかわるのである。その交錯した何か、混乱した何か、--そこに、松尾の詩がある。

 もうひとつ、別な作品に触れながら……。「alone [ひとりだけで」の最後の4行。

地から天へ
傷から傷へと
翻って
濡れてゆく

 「地から天へ」は「未知」と「既知」、「箱の中」と「ひろやか(さ)」の結合に似ている。それは対極を構成する要素である。だが、その次の「傷から傷へ」は、どうだろう。「地」と「天」はだれでもが区別できる。区別できるから、別々のことばで呼ばれる。ところが「傷から傷へ」は、どうだろう。どんな傷と、どんな傷? どこの「傷」とどこの「傷」? 「傷」だけでは、わからない。
 「地」と「天」のように明確に区別できるものと、「傷」と「傷」のようにまったく区別できないものが、完全に「同列」になる。そこに松尾の詩がある。
 「element [要素]」で、「未知」と「既知」の結びつき、その解きほぐしと、「身体」の解きほぐしが区別できなくなると書いたが、それは「未知」「既知」「身体」が同列になるということでもある。

 詩とは異質なもの(存在)の突然の出会い--とは有名な定義だが、松尾なら、その出会いに「同列の」あるいは「同格の」という定義をつけくわえるだろう、と私は思う。




不完全協和音―consonanza imperfetto
松尾 真由美
思潮社

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