小西民子『春のソナチネ』 | 詩はどこにあるか

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小西民子『春のソナチネ』(編集工房ノア、2009年11月18日発行)

 小西民子『春のソナチネ』には短い詩が多い。短い分だけ、無理がない。ことばを無理やり動かして、ことばをいじめるということがない。
 「ねむい空」の全行。

光が透けて
  やってくる

一枚の葉が
  ふるえている

書店の店主が
  いねむりをはじめる午後

花の中は
  暗くて湿ったまま

どこから
  わたしだか

どこまで
  葉っぱだか

 最後の2連が小西の「思想」(肉体)である。「どこから」「どこまで」--それがわからない。いま、ここに、生きている。そのとき、小西は、ここに生きているものを区別しない。区別せずに、ただ「一体」になる。透けた光も、居眠りをする店主も「わたし」なのだ。そこに生きているものすべてをつつむ「空気」そのものが「わたし」ということでもある。

 「ソナチネふたたびの夏」の最後の部分。川を描いた行も美しい。

逢いに
行くことは
川を渡ることであり

川の夢を
いくつも渡ることであり

見えない川も
渡ることである

たどりつくと
いつも
どこかが濡れていて

 切ない恋の思い出だろう。そして、その思い出は「川」、「渡る」ということと「一体」になっている。切り離せない。人間は「ひとり」で生きていくものだけれど、その「ひとり」のまわりには必ず「わたし」以外のものが存在する。そして、その「まわり」というのは、たとえば「ねむい空」では「書店」であったかもしれないけれど、この詩では、小西の寝室、ベッドを越えて、遠い遠い「川」までを含んでいる。人間は、いま、ここにいるのだけれど、その「肉体」は、いま、ここにしばられない。どこまでも自在に広がってゆく。そんなふうに広げてゆくのが小西の「思想」である。

 「秋のソナチネ」の「キリン」の部分は、そうした小西の「思想」が美しく結晶した行である。

本の中を
キリンが歩いている
ときどき
立ちどまり
まわりを見まわして
高い木の葉を食べる

本を閉じると
私の中に入って
暗い夜を一緒に夢をみる

 小西は、キリンのような、まったくの「他者」とも「一体」になるやわらかな「思想」(肉体)を持っている。