白鳥信也「カエルになって」は、久しぶりの雨の日、カエルを見かけ、カエルが感じている「水」を感じたいと思い、「カエルになった自分を想像する」という作品である。
その2連目の途中から引き込まれてしまった。
舗装され平坦な道だけれど
水がなめらかに流れているわけではない
よく見ればアスファルトは
ひとつひとつの砂利が黒く固められ
平らを装った路面そのものは小さなすきまだらけ
水はまずこのすきまに流れ込み
やがて路面をおおっている
カエルはこんなことを考えるはずがないのだが、カエルがこんなことを考えるはずがない--ということを忘れてしまう。そこには、私には「わからないこと」が書かれているからである。「わからない」とはいいながらも、読むと「わかる」。「わからない」とは、つまり、それまで私がことばにするということを思いつかなかったことが書かれているということである。そういうことばを読むとき、それが「カエル」のことばであるなんてことは、すっかり忘れてしまう。こういう瞬間が好き。
このことばの運動はどこから来ているか。白鳥信也の「キイワード」は何か。「よく見れば」である。アスファルトと雨(水)の関係なんか、ほんとうは「よく見る」必要などない。人間にも。たぶん、カエルにも。(カエルではないから実際のところはわからないが。)雨が降れば濡れる--それだけである。
けれど、白鳥は「よく見れば」と目を凝らしてしまう。そのとき白鳥はカエル? 違うよね。どうしたって、人間である。「ひとつひとつの砂利が黒く固められ」という具合に認識できる(ことばで追認できる)のは、その作業、その仕組みを知っている人間だけである。そして、その「仕組み」を知っているというのは、実は、いま、そのアスファルトと水を見ている「目」ではない。そういう「作業」を見てきた「記憶の目」である。「よく見る」というのは、裸の目をこらして見るということではなく、「記憶」を動員して「見る」、「知識」を動員して見る--つまり「肉眼」で見るということである。
そのことばを追うとき、私は、実際にカエルになった白鳥が見ているものではなく、かつて白鳥が見てきたもの、その過去の時間とともに育ってきた「肉眼」そのものを見ることになる。白鳥の目の前にあるものをことばをとおして見るのではなく、目の前にある存在に刺戟されて動きはじめる白鳥の「肉体」のなかにあるもの、その源流へ遡るようにして、白鳥そのものを見る。だから、楽しい。
つづく3連目。
川底からすくわれた砂利たちがアスファルトに閉じ込められて
流れ込む水滴を味わっている
だからいまここは再び川底になっている
あ、なんと美しいことばだろう。ことばの運動だろう。ことばでしかたどりつけない美しさがここにある。
「よく見る」白鳥の目は、ここではカエルであることを超越して、「砂利」になっている。カエルになって「水」を感じようとした白鳥は、カエルであることを忘れて、ここでは完全に「砂利」になっている。「川底」という故郷から切り離された「砂利」になって、その遠い故郷の川底を感じている。
白鳥は、その「砂利」に、しずかな悲しみとともに寄り添う。
けれど……。
3連目の静かな悲しみで終われば、とても美しいのだけれど、白鳥のことばはついつい先へ進みすぎる。「肉眼」の領域を突き破って「精神・感情」にまでことばを整えてしまう。
4連目。
山岳の岩から割れてこぼれ落ち
ごろごろと川を転がり続けてきた小石たち砂利たちが
ここまでたどりついて
黒く固定されしばりつけられている
カエルの裸足でその時間を味わいながら歩いている
この川底はいつほどけるんだろうか
たとえば、川で砂利を採取している作業なら多くの人が見ることができる。白鳥にもそういう「記憶」はあるだろうと思う。アスファルトを道路にまいている作業も見たことがあるだろう。見た「記憶」はあるだろう。
けれど、山岳の岩が割れてこぼれ落ち、それが川を転がりつづけて砂利になるというのは「見た」記憶だろうか? それは実際に白鳥が立ち会って見たものではないだろう。「知識」として知っている「記憶」だろう。「知識」で「世界」を整えすぎると、そこから「肉体」の味が消えてしまう。アスファルトの故郷は川底の砂利である、というのはいいけれど、その砂利の故郷は山岳であり、砂利になるまでには長い「時間」があると故郷の「歴史」まで語りはじめると、もう、そこにはカエルの「肉体」は存在せず(カエルは川底にいたことがあるかもしれないが、山岳には行ったことがないだろう)、むりやり人間の(白鳥の)、どこで知ったかわからない「頭」がくっつけられたような、まるで化け物に変身してしまう。
カエルの裸足でその時間を味わいながら歩いている
あ、そんなことは、できないねえ。アスファルトのなかの「砂利」が「水滴」を味わうというときの「味」には「肉体」の切なさがあるけれど、巨大な岩が砕け、砂利になり、アスファルトになるまでの「時間」の「味」には「肉体」がない。それは「頭」が感じる「味」、捏造された「味」だ。「カエルの裸足」ではなく、白鳥の「頭」で「時間」を味わっているにすぎない。
ここには捏造されたセンチメンタルがある。そして、さらにセンチメンタルのだめ押しがつづく。
この川底はいつほどけるんだろうか
清水哲男なら大喜びするだろうけれど、こういうことばに、私はぞっとしてしまう。「頭」で書かれた敗北主義のセンチメンタルには、どうにも我慢がならない。「いつほどけるんだろう」というのは「頭」が考えた悲しみにすぎない。
「よく見れば」からはじまった「肉眼」(肉体)の美しいことばは、どこへ行ってしまったんだろう。
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