大橋政人「空」 | 詩はどこにあるか

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大橋政人「空」(「ガーネット」59、2009年11月01日発行)

 私はわけのわからないことが好きである。なんでもいいが、わけのわからないものに出会うと、何それっ、と近づいて行きたくなる。そして、いちばんわけがわからないものは、人間の「考え」だと思っている。
 大橋政人の「空」は、そんなことを思い出させてくれた。

毎日
空ガアルノデ
毎日
空ヲミル

毎日
空ヲミルノデ
毎日
空ヲカンガエル

私ガアルノト
空ガアルノトハ
何カ関係ガアルヨウナキガスル

 ここに書かれていることは、わけがわからない。いや、書かれていることはわかるが、それがわかってしまうということが、実は、わけがわからない。

毎日
空ガアルノデ

 まず、この書き出しがわからない。おーい、大橋さん、なんで、そんなこと書くの? あたり前でしょ? 「毎日」と書かなければならないのは、それがほんとうは「毎日」ではないときだけでしょ? たとえば、私は「毎日」朝7時に起きる--と書いたとすれば、それはほんとうは「毎日」ではないから。ときどきは7時ではなくなるから。
 いや、そんなことはない。「毎日」陽が昇り、陽が沈む、というのはあたりまえのことだけれど、「毎日」ということばは不可欠である。--そういう反論があるかもしれない。
 あ、そうですね。それは重要なポイントですね。
 実は、その反論を待っていたのです。
 という具合に、私も、まあ、他人から見れば、なんでそんなことをわざわざ書くの? というようなことをついつい書いてしまうのだけれど……。

 そうなんだなあ。「毎日」陽が昇り、陽が沈むというようなことは「毎日」ということば抜きには書けない事実である。「毎日/空ガアル」だって、事実を書いているだけだから、それがわけがわからないということにはならない。
 あ、でも……。
 「毎日」陽が昇り、陽が沈む--と書くのは、実は、その「毎日」において陽が昇り、陽が沈むということが普遍にある一方で、何か、そこでは違ったことが起きるからこそじゃないのかな? 違ったことが起きるということを浮き彫りにするために、「毎日」陽が昇り、陽が沈む、ととりあえず、普遍のことがらを書いているのじゃないのかな?
 たぶん、そうなんだ。
 そして、もし、そうだとすると、大橋が「毎日/空ガアルノデ」と書きはじめたのも、実は、何かしら違ったことを書くための補助線のようなものだな。

 では、その違ったものとは?

毎日
空ガアルノデ
毎日
空ヲミル

毎日
空ヲミルノデ
毎日
空ヲカンガエル

 どこが違う? 「違う」ものというのは、たいてい、わけのわからないことだけれど、ここに書かれていることばはとても単純で、書かれていることがらは「わかる」。だれも知らないようなこと、特別なことは何一つ書かれていないように見える。
 見えるけれど、そのように見えるということが、実は、「わけがわからない」。こんなばかなこと、こんな変なこと、と言えない。その言えないということが、「わけがわからない」。

私ガアルノト
空ガアルノトハ
何カ関係ガアルヨウナキガスル

 この3連目が、絶妙だ。「何カ関係ガアル」と言い切らずに「ヨウナキガスル」とあいまいに「ずれ」てゆく。それまではすべて断定だったのに、ここでは断定をさせ「ような気がする」と二重にぼやかしている。「ような」と「気がする」に二回、断定をさけている。
 「わけのわからないこと」を断定せずに、「ような気がする」と二回、あいまいにすることで「わけのわからない」という状態のまま、そこに存在させてしまう。
 何を存在させてしまうかって?
 「気」だ。「気」だけではなく「気がする」の「する」を存在させてしまう。

 「気がする」というのはとても変な表現である。気が存在するのではない。「気」というのは名詞のはずだが、それが物質のようにそこに「ある」のではなく、「する」という運動とともにそこで動いている。「する」があるから「気」がそこにある。「する」によって、「気」ではなかったものが「気」に「なる」のだ。
 「する」のなかには、「なる」が隠れている。

 同じように、実は、それまでの連のなかにも「なる」が隠れているのだ。

毎日
空ガアルノデ
毎日
空ヲミル
(ことになる)

毎日
空ヲミルノデ
毎日
空ヲカンガエル
(ことになる)

 「ミル」「カンガエル」は、実は、それまで「見なかった」「考えなかった」けれど、「見るようになった」「考えるようになった」ということを、言い換えたことばだ。
 
 やっと。
 「毎日」と書かなければならない「理由」がやっと、でてきたね。「毎日」と書いているのは、それは「毎日」ではなかったのだ。いま書かれている「毎日」は、それまでの「毎日」と違ったことがあるからこそ、そして、それをはっきりさせるためにこそ書かれたのだ。

 「わけのわからないもの」。それは、考え。そしてそれがなぜわけがわからないかといえば、それは「なる」ものだからである。定まったものではなく、「なる」。変化する。変化するものは、とらえどころがない。変化をただ追いかけて、なんだこれは、といいつづけるしかないものなのかもしれない。一瞬一瞬は「わかる」。そして「運動」そのものも「わかる」ような気がする。けれど、何か微妙に違う。その違いは、違うということ以外には「わからない」。--って、いったい、何を書いているの?

 自分でも、よくわからない。よくわからないけれど、あるいは、よくわからないからこそ、こんなふうにことばを動かしてみるのが、私はとても好きだ。こんなふうに、わけのわからない気持ちにさせてくれることばが大好きだ。
 でも、それじゃあ、きりかない? どうやって「考え」を終わらせればいい? 大橋は、笑いのなかで終わらせる。その「手つき」もいいなあ。軽くていいなあ。考えには重い考え(という表現)と軽い考え(という表現)がある。実際に測ったことがないので、ほんとうに「重い」「軽い」があるかどうかわからない。大した差はないのかもしれない。大橋のことばを読んでいると、そう思えてくるから楽しい。

空ヲ考エルト
切リガナクナル

空ニ
切リガ
ナイカラダロウカ

 最後の2連の、その連を構成している1行あき。これもまた絶妙である。1連目、2連目のことばをつかえば、そこに当然「ノデ」ということばに通い合うことば「ノハ」があっていいはずなのだが、それが、ない。
 大橋の笑いの軽さ、考えの軽さにみせかけた「重さ」(重要さ)は、この「ノハ」の省略にある--ということを、ふと思いついたが、ああ、長くなるなあ。まあ、そう思いついたと書いておけば、いいだろう。
 ほんとうは思考をひきずっているのだが、それを断ち切って、(1行あきで)、飛んでしまう。この飛んでしまうときの「体力」(筋肉の力、肉体)が、大橋のことばの「いのち」かもしれない、とまた、余分なことを書いてしまう。



十秒間の友だち―大橋政人詩集 (詩を読もう!)
大橋 政人
大日本図書

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